トップ > 伊藤塾について > 合格後を考えた取り組み > 人間の安全保障 > 第20号 PNG ソリューションに揺れるオーストラリア:人間の安全保障のジレンマとパラドックス 

第20号 PNG ソリューションに揺れるオーストラリア:人間の安全保障のジレンマとパラドックス



佐藤 安信 東京大学教授

7月中旬、キャンベラに到着して間もなく、テレビ画面のラッド首相に目が留まった。
今後ボートによってオーストラリアに不法入国をしようとする庇護申請者はすべて、パプア・ニューギニア(以下、PNG と略称で表記する)のマナス島という小島に送還される、と高らかに宣言をしていた。
ほぼ同時に、テレビ画面は、太平洋の孤島ナウルの庇護申請者の収容施設で大規模な反乱が起こり、施設が放火されて多くの申請者が焼けだされ、オーストラリアの入管職員も含めてけが人が多数出ている事態をセンセーショナルに伝えていた。
新聞のトップニュースはこの2つを軸に展開されていた。
その後、ラッド首相が総選挙を 9 月 7 日に実施すると発表して以来、難民政策は選挙の争点の目玉の1つとして、話題に出ない日はない。
 ラッド首相は、2007 年に労働党を率いる首相となった際に、それまでの保守系ハワード政権がとってきた、PNG に庇護申請者を収容して審査するという政策を廃止した。
それ以後、イランやアフガニスタンなどからインドネシア経由で小さなボートでオーストラリアに不法入国をする者が増えたという。
 今年は既に1万 3,000 人を超えており、また、たびたびボートが転覆して多くの溺死者が出るという人道的な問題にもなっていた。
ギラード首相は、不法入国者をマレーシアに送還しようとしたものの、裁判所により違法と判断されて断念せざるを得なかった。
 そこで今年首相に返り咲いたラッド氏は、以前の政策を 180 度転換して「マレーシアは難民条約に批准していないからだめなので、難民条約を一部批准している PNG に送るならいいだろう」と、PNG ソリューション * を掲げ、そのための支援に多額の予算を使うと公言した。
しかし、難民条約に加盟しているとはいえ、PNG の人権状況は世界的にも極めて悪く、日本の外務省からは特に女性は単独行動を避けるよう注意喚起がなされている状態である。
いくら密入国業者をつぶすため、あるいは人々をこれ以上溺死させないためとはいえ、ラッド氏のこの政策は人権条約にも抵触するとして国内外から激しい批判にさらされている。
とはいえ、オーストラリアへの同情も禁じ得ない。
2007 年以来、ボートで入国した者は5万人以上で、その数は増えるばかり。そのうち3万人以上が難民認定申請中という。
長期にわたってナウルの収容施設で待たされる申請者が、その状況に耐えきれなくなるのも無理はない。
人道的な観点からこのような人々を助ければ助けるほど、密入国業者を喜ばせることになり、ねずみ算式にこのようなボートによる庇護申請者の密入国に拍車がかかるというわけだ。
 次期首相をねらう保守系のアボット氏は、これを国家安全の危機として煽り、労働党の失策を生温いと批判して、海軍を出動させて追い散らせとすら言っている。
ナウルの収容施設を拡充して、そこからもオーストラリアには入国させないと、ますますハードな政策を打ち出す姿勢を見せている。
 
 先日ブラックマウンテンという山に登って久しぶりにキャンベラを一望した。
首都というのに、街らしいものは人工湖の脇にけしつぶほど存在するばかりで、後は地平線まで雲海ならぬ、森海、青木ヶ原の比ではない。つい、まだまだ土地はいくらでもあるのになあ、とつぶやく。
 聞けば日本でも、参院選で大勝した安倍首相が、日本の原発は世界一安全と、外遊のたびに売り歩いているとか。
一方、アメリカ ABC ニュースでは、福島第一原発で汚染水が太平洋に垂れ流しだと大きく報道された。
はてさて、人間の安全保障はどこへいったのやら。日豪でアジアにおける人間の安全保障のために協力してはどうか、と提案したかったのだが、この状況では望むべくもない。
 さて 9 月 7 日の総選挙では予想通り労働党は大敗し、アボット氏率いる保守系の政権となった。
労働党のやり方は手ぬるいと、今後はボートがオーストラリアに到着した事実すら公表しないそうだ。
不都合な事実は隠すというのだろうか。
アラブの春からエジプト、シリアでの紛争によって、難民はますます増えるばかり。
これまで難民受け入れの先頭に立っていたオーストラリアは、国内政治の鬱憤を難民に向けて、国内外で反動的な政策が取られることで、弱い立場の人々はますますその安全を脅かされるのだろう。
願わくはアジアソリューションとして、「人間の安全保障」を推進する日本こそが、難民あるいは避難民の保護と能力強化、また難民問題の根本的な原因である 貧困や格差を含む広範な人権侵害を緩和するための、アジアにおける枠組みを作るためにリーダーシップを発揮してほしいと思う。そのための調査、研究協力が 一層重要となっている。

(編者注)
*PNGソリューション:”The Regional Resettlement Arrangement between Australia and Papua New Guinea”の通称。ボート等によって不法入国を試みる庇護申請者をオーストラリアに入国させず、パプア・ニューギニアのマナス島にある収容施設に送還 する、という政策のこと。  


 
伊藤塾塾便り218号/HUMAN SECURITYニュース(第20号 2013年10月発行)より掲載