トップ > 伊藤塾について > 合格後を考えた取り組み > 人間の安全保障 > 第42号 地球の裏の「3.11」:チリの被災地を訪ねて 

第42号 地球の裏の「3.11」:チリの被災地を訪ねて



内尾太一 麗澤大学外国語学部講師

55年前の話から始めたいと思います。
1960年5月24日未明、地球の裏側に位置するチリからの津波が、日本に押し寄せました。
この災害は、チリ南部沖でマグニチュード9.4という観測史上最大の地震(バルディビア地震)が、現地時間5月22日午後3時11分に発生したことによるものです。
そして、およそ1日かけて、チリから約17,000km離れた日本の太平洋沿岸部に津波が到達。
全国で142名の犠牲者を出す大災害となりました。
中でも、この「チリ地震津波」による被害の大きさで全国的に注目されたのが、宮城県本吉郡志津川町です。
それから30年の節目となる1990年に合わせて、当時の駐日チリ大使は、志津川町を訪れ、友好のメッセージを贈りました。「30年前、チリ国南部海岸地 帯を襲い、貴町にも、津波の大きな被害をもたらした悲しむべき災害を記念されることに、チリ国民は、深い共感を覚えます」という言葉から、チリとこの町と の交流が始まりました。実際、その翌年の1991年には、チリ共和国領イースター島の誇る巨石文化にちなんで、実際にチリ本土の石でつくられたモアイ像が 寄贈されました。 そして、2011年3月11日。東日本大震災が起こりました。志津川町は、2005年に隣の歌津町と合併して「南三陸町」となっていました。この町の津波 の被害の凄まじさは、ご存知の通りだと思います。海の近くの見晴らしのよい公園に設置されていたモアイ像も壊れてしまいました。しかし、結果的に、この大 震災がきっかけとなって、チリとの結びつきは一層強まることになりました。例えば、チリから南三陸町へは、ピニェラ大統領(当時)の慰問や新しいモアイ像 の寄贈があり、南三陸町からチリへは、地元高校生の短期研修派遣などが行われています。また、町内では、モアイグッズが、被災地を訪れる観光客に人気のお 土産となり、復興に一役買っています。 
ここまでの一連の出来事は、日本国内でも知られていることですが、まだこの話には、続きがあります。そして、ここからが、この記事の主題です。東日本大震 災を引き起こした東北地方太平洋沖地震のマグニチュードは9.0で、観測史上4位の大きさでした。これだけの大地震です。実のところ、その津波の被害は日 本だけに留まりませんでした。気象庁の調べでは、アメリカ、エクアドル、そしてチリの太平洋沿岸部で、2m以上の津波が観測されています。こうした震源か ら遠く離れた地域に押し寄せる津波を、遠地津波といいます。 
2015年9月上旬、これらの海外の被災国の中でも、最も遠く離れたチリを訪ねました。この国は南北に長く延びる海岸線でよく知られています。今回は、と りわけ被害の大きかった地域において、日本からの津波の痕跡を辿ることと、そこで暮らす人々の当時の証言を得ることが目的でした。実際の調査地のひとつと なったのは、プエルトビエホ(古い港、という意味)というチリ北部アタカマ州の沿岸部にある小さな漁村です。開けた砂浜があり、夏(南半球なので1~2 月)には、多くの鉱山労働者が休暇を過ごしにやって来ます。州都であるコピアポから、車で西へ約80km。アタカマ砂漠を有するこの州は、世界でも最も乾 燥した地域のひとつです。プエルトビエホへと続く一本道も、その周囲は、砂と石と僅かな植物の荒野が広がるばかりです。そこを走る公共の交通機関もありま せん。そんな隔絶された場所が、日本からの遠地津波によるチリ国内最大級の被災地となりました。 
では、このプエルトビエホで何があったのでしょうか。2011年3月11日に日本が未曾有の大災害に見舞われたことは、瞬く間にチリ国内でもニュースとな りました。プエルトビエホでは、現地時間の3月11日の夕方6時頃、住民の避難と漁船の保護のために、チリの海軍と警察がクレーンやトラックを引き連れて やってきました。そして、3月12日深夜3時過ぎ、最大4mの津波が襲来しました。「この地域唯一の発電施設が波にのまれた瞬間、真っ暗な夜へと変わっ た」、「飛行機同士が空中で衝突したような大きな音だった」など、人々は高台からみた津波の様子について語ってくれました。幸いにして犠牲者はいませんで したが、150軒の家が流失したといいます。4年半が過ぎた今でも、浜辺には津波で流された家の基礎部分や、主のいなくなった廃屋が残されていました。 
また、印象的な出会いが幾つもありました。「ここは忘れ去られた古い港、そして私は忘れ去られた老人だ」と語る高齢の漁師の男性がいました。日焼けがしみ ついた黒い肌、海を見つめる眼差しがとても印象的でした。「日本から津波を送ってくるなんて小賢しいわね」と憎まれ口を叩く気の強そうな女性もいました。 別れ際には、「本気にしないでね」といいながら頬にキスをくれました。
そろそろ、この記事を締めくくらなければなりません。1960年に日本を襲ったチリからの津波、2011年にチリを襲った日本からの津波、これら2つの災 害は、太平洋の両岸を結ぶある種の想像力を私たちにもたらします。例えば、東日本大震災は、実際のところ日本だけの災害ではありませんでした。今回、プエ ルトビエホで見つけたのは、「支援してくれた諸外国」と「支援を受けた我が国」という認識だけでは決して捉えることのできない災害の多様な現実です。被害 の大小の差はあれ、このような幾つもの「3.11」が、日本以外の環太平洋地域にはあったのだと思います。 
津波は、人工的に定められた国境や領海を易々と越えていきます。当然その被害は防がれるべきものですが、こうした災害を契機に、国家の枠組みに限定されな い思考でもって、海の向こう側で暮らす人々との繋がりを想像してみてはいかがでしょう。そうしたイメージの積み重ねが、これから先も人間の安全保障の考え 方を支えていくはずですから。


 
伊藤塾塾便り242号/HUMAN SECURITYニュース(第42号 2015年10月発行)より掲載