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第36号 教育を受ける権利、およびその機会の保障について

堀越 貴恵 東京大学 寄付講座「難民移民(法学館)」スタッフ

教育を受ける権利は、法によってどのように保障されているのでしょうか。
日本国憲法は第26 条第一項に、すべての国民がひとしく教育を受ける権利を保障しており、第二項において、すべての国民に対する「教育を受けさせる義務」が課されています。
それでは、外国人の教育を受ける権利はどのように保障されているのでしょうか。
外国人が日本国憲法の人権享有主体となるのかという点は、最高裁のマクリーン事件判決(昭和 53 年 10 月 4 日)等の判例によると、憲法によって保障された人権の性質から外国人に対する人権を判断する、という性質説が主流となっていますが、外国人が教育を受ける 権利は憲法上では保障されていません。
その一方で、国民や外国人等の区別なく、すべての人の教育を受ける権利を保障した社会権規約第 13条、18 歳未満のすべての人の教育を受ける権利を保障した児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)第 28 条があり(両条文ともに初等教育は義務的で無償なものとして規定している)、日本はいずれの条文も批准していますから、日本においても条文上では外国人が 教育を受ける権利は保障されているといえます。
 しかしながら、こうして保障されている外国人の教育を受ける権利は、いったいどこまで外国人の教育を受ける機会の確保につながっているのでしょうか。
18 世紀に起きた自由・平等・博愛を掲げたフランス革命では、すべての人に基本的な人権の一部として学習権を認め、「万人に無償の教育機会を平等に保障するこ と」を目指し、「国家に忠誠な国民ではなく、理性に従って考え行動する、自立した市民を育てること」に主眼がおかれていたとされていますが、国民と外国人 との権利の違いについては不明確でもあります。
 
 国民とされる人々だけではなく、外国人、難民など、社会でともに生きる人々の社会的背景が多様化するにつれて、公教育のありようも変化してくるのではないかと思います。
すべての人に教育を受ける権利を保障することは、どこで、どのような環境で、どのように生きていくのか、ということと密接にかかわる教育を受ける機会を確保することにつながっています。
条文上では教育を受ける権利が保障されているとはいえ、教育を受ける機会は一様に確保されているわけではありません。
例えば、以前よりご紹介してきました日本語教室の参加者の様子を見てみますと、日本語習得のために教室で必死に勉強している人の姿が見受けられます。仕事などの理由から学習を継続させることの難しい人たちもいます。
このほか、外国人の子どもの不就学や経済的事情等により子どもが公教育以外に教育を受ける機会がない場合などもあります。
 
 外国人に権利を保障するという場合、それは国民が、他者である外国人をもてなす、という側面があることは否定できません。
場合によっては国民の血税や財産をそうした他者に軽々しく費やすという印象さえ与えることなのかもしれません。
しかし、実はこのような課題は、法律論を超えて、より本質的には利他主義や視野の広い国民の利益論からも検討しなければならないのではないかという問題意識を筆者自身は抱いています。
というのも、権利に対応する義務、というその名宛人にのみに行動を求めることで実現できる社会の福利というのは、その仕組み自体に限界があるのではないか、とも思うのです。
市民社会や、自発的な個人、そして NPO などは、そうした社会の隙間(法律論だけでは満たせない社会の豊かさ)を埋めるための機能を期待されているのではないか。日本語教育支援の現場視察を通して、筆者はそう感じるようになっています。


 
伊藤塾塾便り236号/HUMAN SECURITYニュース(第36号 2015年3月発行)より掲載