第44号 信頼ある社会(2)

山本 哲史 名古屋大学大学院法学研究科特任講師
(モンゴル国立大学法学部日本法センター勤務)
東京大学寄附講座「難民移民(法学館)」前事務局長

前回、「信頼ある社会」と題して、社会の仕組みに信頼が果たしている役割を観察してみると、その重要性について改めて考えさせられるといった趣旨のことを書きました。
今回も引き続き、そうしたことや法の限界について考えてみたいと思います。 ■マフラーがない
モンゴル人にはプライドの高い人が少なくないので接し方を誤らないように、といったアドバイスを読んだことがあります。
私は必ずしもそう感じない、といっても人それぞれでしょうからなんとも言えないのですが、仮にプライドが高いとしたら、それは特に人への信頼に関する部分についてではないだろうかと思うことがあります。
先日、ウランバートル最上級のホテルで会食する機会がありました。とっくに氷点下に突入しているこの世界最低気温の首都では防寒対策が必須ですので、私は帽子にマフラーに手袋にと、万全の状態でお店を訪れました。
楽しい時間が過ぎた帰り際、預けてあった上着の返却を受けましたが、すぐに帽子と手袋がないことに気づき、それらも返却してくださいと申し出ました。
帰り道、それでもマフラーを返却してもらっていないことに気づき、しかしもう引き返すには遠くなっていましたので電話をしたところ、「ありません」というので、翌日そのお店に足を運び、マフラーを返却してもらうようにお願いしたところ、やはり「ない」とのこと。
預けた上着類を一括で返却されなかったこと、それに再びそのことを指摘した際にも、まだマフラーを忘れていたこと。自分の不注意もなくはないとしても、や はり店側の対応の問題だと思い、残念な思いでいたところ、追い打ちをかけるように「うちの店では、忘れ物は紙切れ一枚でも保管しておいて必ず返却します」 と言われました。
人の物を取るような真似をする従業員はうちには一人もいない、と。
同僚からの頂き物の高級カシミアだったので、諦めきれない思いでいましたが、もはや、あったなかったという水掛け論をしてもしょうがない、と自分に言い聞かせました。
その時ふと、上記の「アドバイス」のことを思い出しました。
■信頼とプライドの方向性
そして少し考えました。
まず、一般的にも、信頼とプライドには何か関係がありそうだ、ということ。
そして信頼もプライドも、誰に対してのものであるか、という方向性のあるものである、ということ。
それは場合によっては、ある人に対する信頼を貫き、また、ある人に対してプライド高い姿を見せ続けることは、他方ではまた別の人を疑い、否定することを意味することにもなるということ。
そういう意味では、自分と特定の相手の他に多数の人々のいる場所、つまり社会の中では、信頼もプライドも、相対的なものに過ぎないということ。
私たち研究者には、職業柄、世の中の制度や仕組みを記述するということがよくあるのですが、それを普遍的な真理のように語るべきではない、ということを改めて意識した場面でした。
「人間の安全保障」は、弱者目線のアプローチを要素とすると強調されますが(vulnerabilityの重視)、その目線がどういうものであるのか、そのこと自体の記述を怠ることのないようにしなければならないように思います。
裕福な家に生まれ、苦労を知らずに高等教育を受けて優秀に育ち、高い社会的地位を得た人に、「人間の安全保障」を語られても、何か説得力を感じない、そうしたことの根底にもつながることなのかもしれません。
■自身を客観化することの難しさと他者の立場への配慮
前回少し書きましたヴァイツゼッカーが法の限界を警告したことの背景には、法の崇高な理念と複雑な論理が、ともすればその立場を絶対的なものとして錯覚させかねない、という問題意識があるように思います。
私たちはみな、誰かの味方であるのと同時に、誰かの敵なのだということ。
カール・シュミットが敵と味方の峻別こそ政治の本質であると指摘したことは有名ですが(田中浩・原田武雄訳『政治的なものの概念』未來社、1970 年)、そのことを自然の摂理のように受け容れよというのではなく、想像力や共感する力を駆使し、克服しようと努力することは重要であると思います。
そのためにも、その意識を出発点としては忘れてはならないと思うのです。法や正義の限界にも関係していることかもしれません。


 
伊藤塾塾便り244号/HUMAN SECURITYニュース(第44号 2015年12月発行)より掲載
 

第39号 「未曾有の危機」を知る

山本 哲史 神奈川大学法学研究所客員研究員 東京大学寄附講座「難民移民(法学館)」前事務局長

毎年6月20日は「世界難民の日(WorldRefugeeDay)」です。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)がこの日に合わせて発表した数字によると、住む家を追われた人の数は世界全体で6,000万人に及ぶということです。
この数は史上最大のものであり、今なお増え続けています。
想像に難くないのは、シリア難民が大きな割合を占めているということです。
ISISによる一連の問題によって、現在までに400万人近い人々がシリアを離れたと言われています。
(数字はいずれも本稿執筆時のもの。出典はUNHCR「シリア難民への地域毎の組織間情報共有サイトhttp://data.unhcr.org/syrianrefugees/regional.php) ●情報発信の格差
シリアの窮状については日本の報道でも扱われることが多いですが、それでも情報は十分ではありません。
難民に関する活動をおそらく最も包括的かつ積極的に行っているUNHCRは、難民の窮状を訴えるのと同時に、活動に必要な予算要求を世界に対して発信しています。
予算獲得の力の入れ具合によって、情報の発信の仕方も変わってきます。
これまでよく言われたことの一つに、こうした予算要求やそのための情報発信には地域格差があり、重視されている地域とそうでない地域がはっきりしている、ということがありました。
たとえばミャンマーとバングラデシュの国境周辺に集住するロヒンギャ難民の窮状が最近まではそれほど注目されてこなかった一方、地中海を小舟でヨーロッパ へと渡って庇護を求める人々(いわゆるボートピープル)の問題が大きく注目され続けていることは、ヨーロッパ偏重とされる状況を反映している面もありま す。
悪意はないとしても、情報に偏りはつきものです。
●ボートピープルの移動の背景
なお、2014年の1年間にヨーロッパ全体で庇護を求めた人の数は約65万人と言われますが、そのうち約35%を占める22万人もの人々はボートピープルであったと言われています。
不幸な転覆事故なども起きているわけですが、人々が命を海上で危険に晒しながらも移動を試みる背景には、強い動機があるわけです。
とはいえ、ボートピープルにはリビアやシリアにおける紛争や政権の転覆を原因とする難民が多く含まれていると考えられていると考えられている一方で、不法 就労を主たる目的とする人々や、人身取引のような形で北アフリカからヨーロッパへの人の流入を斡旋するブローカーの暗躍も徐々に明るみに出てきています。
つまり危険を顧みない移動の動機は、必ずしも紛争などの直接的な命の危険だけではないようです。
●正しく状況を判断するために
比較的恵まれた日本に住む我々には想像し難いことではありますが、経済的な動機もまた、時には命を危険に晒させることになります。
こうしたことを表す情報に接したとしても、常識や固定観念に縛られていたのでは状況が見えてきません。
情報を元に、自分なりにその起きていることのメカニズムを分析し、物事を把握することが重要です。
そのためには直接的な情報だけでなく、周辺情報も必要となってきます。
●第一歩は「知ろうとすること」
例年、6月20日には様々なイベントが世界各地で催されています。
また、UNHCRは女優のアンジェリーナ・ジョリーを特使(SpecialEnvoy)として登用するなど、世界に難民の窮状を訴えるべく工夫しています。
これらの取組の根底には、難民の問題が国際社会の関心を呼ばない限りは解決に近づかないという意識があることは言うまでもありません。
まず知るということがあって、意識の高まりがあって、人々の行動があるということは、万事に通じることなのだろうと思います。
知ろうとすること、知ることから物事は始まります。


 
伊藤塾塾便り239号/HUMAN SECURITYニュース(第39号 2015年7月発行)より掲載
 

第40号 それでも頑張るCDR:難民と国際的保護のアジアネットワーク(ANRIP)と「難民政策プラットフォーム」の始動

佐藤 安信 東京大学教授

本年3月の塾便りでお知らせしましたとおり、株式会社法学館による東京大学寄付講座「難民移民(法学館)」は、本年3月31日をもって終了しました。
しかし、同講座に支えられたCDR(難民移民ドキュメンテーション・プロジェクト)は、東京大学グローバル地域研究機構持続的平和研究センターのプロジェクトとして引き続き活動をしています。
予算がないため活動は制限されますが、これまでの成果を基にできたネットワークを駆使して、さらに悪化する難民や移民の課題に対して取り組んでいます。 昨秋のCDRサマースクールに参加した韓国の裁判官、香港入管幹部職員、フィリピン政府幹部、アテネオ大学ロースクール学部長、ニュージーランドの裁判官 らと、国連難民高等弁務官(UNHCR)の東京を含む各地域代表事務所の担当者が、難民と国際的保護のアジアネットワーク(ANRIP)という国際的な ネットワークを設立しました。
初代代表は、全国難民連絡協議会で活躍されている宮内博史弁護士です。
ほぼ毎月、東大駒場キャンパスにあるCDRのオフィスでスカイプによる国際会議を進めてきました。
各国地域における難民認定のための、難民出身地国情報(COI)収集についての実務に関する報告をしていただくなどの研究活動ばかりでなく、今後アジアに おける難民保護のための連携協力活動について意見交換をしています。この度、第二回の大会を来年1月28、29日にマニラで開催することになりました。
他方、本年2月28日に開催した寄付講座終了記念セミナーでその設置を宣言した難民政策プラットフォームも、座長の滝澤三郎東洋英和女子学院教授(3月まで寄付講座の本学特任教授)のアレンジで第二回の公開セミナーを8月1日に駒場キャンパスで開催しました。
法務省入国管理局難民認定室長から同審判課長に昇進された君塚宏さんと、寄付講座事務局長として活躍された山本哲史さん(4月から神奈川大学法学研究所客 員研究員で、8月から名古屋大学の特任教員としてウランバートルに赴任)を講師として、現在進んでいる入国管理難民認定法改正の目玉の1つとされる、いわ ゆる補完的保護を中心に、日本の難民保護のあり方について議論いただきました。
コメンテーターとしては、国際移住機関(IOM)の橋本直子さんと、難民支援協会の石川えりさん、UNHCR駐日事務所の榛澤祥子さんが参加され、最大収 容者60名のセミナー室に100名を越える参加者が詰めかけ、立ち見が出ながら、この真夏の暑さに負けない熱い議論が展開されました。
高校生ばかりか中学生も参加して、フロアからの質疑も混ぜて、率直で建設的な議論が展開されました。
その後のレセプションでは、ウランバートルに旅立つ山本さんと、やはり8月に英国留学に旅立つ橋本さんへの花束贈呈が行なわれ、彼らの活躍をねぎらいつつ、新天地での新たな活躍によるCDRの世界的な連携への期待がふくらみました。
オーストラリアや名古屋などの遠方から参加された方もあり、国内外にCDRの活動の輪が広がっていることを実感します。
世界的通信社のライターの記者も2名参加され、今後の具体的な協力も期待されます。
中高学生の参加は、その前に週におこなわれた、NPO法人「人間の安全保障」フォーラム(HSF)の模擬国連に参加する高校生対象の出張講義の成果です。 今年のテーマである移民と難民について学ぶ高校生に対し、滝澤さんと私に加えて、ミャンマー難民のチョウチョウソウさんがファシリテーターとしてコメント しました。
このような高校生たちが、実際の難民政策に関心をもって参加してくれたのは、今後の日本の難民政策の発展の大きな一歩になるものと確信しています。
CDRはこのように、多くの方々に支えられながら、引き続き難民移民の保護とエンパワーメントのための国内外の連携を推進し、より良い政策とその実施のための関係者間の情報意見交換のための対話の場を提供して参る所存です。
今後は、政府や弁護士、市民社会ばかりでなく、難民問題の最終解決のためのキーとなるビジネスの役割を考えながら、企業などにも参加を呼びかけて参るつもりです。ぜひ、皆さんも引き続き、CDRの活動に参加してください。( 編集追記 )
 
本年9月19日(土)18時30分から伊藤塾東京校にて実施する「明日の法律家講座」講演会では、本稿を執筆いただいた佐藤安信教授にご登壇いただく予定です。詳細は塾便り9月号、また伊藤塾ウェブサイトに掲載いたします。


 
伊藤塾塾便り240号/HUMAN SECURITYニュース(第40号 2015年8月発行)より掲載
 

第41号 レジリエンスと人間の安全保障

山本哲史 名古屋大学大学院法学研究科特任講師 東京大学寄附講座「難民移民(法学館)」前事務局長

■レジリエンスとは
今回は「レジリエンス(resilience)」について考えてみたいと思います。
レジリエンス(強靱性)とは、本来は物性を表す用語であり、力に応じた変形を通じて曲げや引っ張りなどのエネルギーを吸収し、再びそれを解放する性質のことです。
バネをイメージしてみてください。この用法から転じて、心理学などにおいては、精神的な回復力や復元力を表す用語となっています。
例えば深刻な外傷的ストレスを経験した人すべてがPTSDになるわけではなく、その一部の人がPTSDを発症することが分かっており、その際に、PTSDを発症させない要素がレジリエンスとされているそうです。
したがって、レジリエンスは脆弱性(vulnerability) の 対 義 語 と し て も 理 解されています。
レジリエンスがあれば、ある意味では「人間の安全保障」がなくとも大丈夫なのかもしれません。
一人一人が有する強さ、たくましさ、耐久力、忍耐力、そのようなものがレリジエンスなのだと思います。 ■モンゴルでの体験
私は今、ウランバートルで、モンゴル国立大学法学部の大学生に日本の法律を講義するという仕事をしています。
向う2年間の予定で、まだ滞在 1 ヶ月ほどしか経っていませんが、もしかすると、豊かさとレジリエンスはトレードオフの関係にあるのかもしれない、ということを感じることがあるのです。
一般論ですが、人は誰かに守ってもらわずとも、強くたくましく生きられる。逆に過保護に慣れれば、レジリエンスは失われてしまう。
郵便を例に考えてみたいと思います。日本では当たり前のことですが、ここモンゴルでは、そしておそらく多くの国でも、各戸に郵便物が配達されることはありません。
私書箱を登録して受け取りに行くわけです。
よく考えてみると、住所を書いて投函するだけで日本中どこへでも配達してくれる、郵便や宅配便というのは、便利であるという以上に、恐ろしくサービス精神に溢れるシステムだったのだなと感じます。
日本を離れる直前、たまたま、法務省の関係の仕事で作成した文書を「ゆうパック」で届けようとしたときのことでした。
内容として「意見書」と書いて郵送をお願いすると、窓口の方がわざと小さめの声で、「ここ『 書類 』に訂正してください 」との こと。
管轄が違うのだそうです。
ゆうパックは宅配便に相当し、それは意見書のように相手に考えを伝える書類、つまり信書を配達する許可を得ていないサービスなのだそうです(郵便法及び信書便法)。
驚きました。日本はこんなに社会の隅から隅まで、毛細血管のように法が張り巡らされている。
■野生のレジリエンスの代わりに
昨今、法曹教育には「法曹になれなかった時のことを考える」という部分が欠かせなくなっている、と聞きます。
ですが何も心配することはないように私は思います。
日本で皆さんは高度に発達した法のAからZまでを日常の中で体験しているわけですから、その体験の一つ一つを世界最高水準の制度であることの確認をしながら学んでゆくこと、それが法曹を目指して教育を受けるということなのだと思うのです。
私たちには砂漠に放り出されても生き延びるレジリエンスはもうないのかもしれません。
しかし社会に生きる人間として、法を知り、制度を知り、失った野生のレジリエンスを現代の高度で複雑な社会制度の知恵へと変換して生きているのです。
法曹を目指す中で学ぶことは、そのようなことなのだと私は思います。
夢破れることがあっても、現代を強く生きるための知恵は必ず身に付いているはずです。


 
伊藤塾塾便り241号/HUMAN SECURITYニュース(第41号 2015年9月発行)より掲載
 

第37号 寄付講座を終えるにあたって

堀越 貴恵 東京大学 寄付講座「難民移民(法学館)」スタッフ

株式会社法学館/伊藤塾による東京大学寄付講座「難民移民(法学館)」は、2010年度から5年間にわたり,難民移民にかかる研究教育を行なってきました。同社による寛大な寄付を得て継続してきたものですが本年、3月31日をもって終了します。
これを記念して、同講座が支援してきた東京大学大学院「人間の安全保障」プログラムとCDR(難民移民ドキュメンテーション・プロジェクト)の共催という 形で、同講座最後のイベント「日本の難民政策の現状と課題:国際公共財の観点から」と題するセミナーが開催されました(2月28日、東京大学駒場キャンパ スにて実施)。
 同講座の活動に参加、また協力をいただいた方々をはじめ、約50名にご出席いただき、満席の会場で熱気のある議論が展開されました。
この企画は滝澤三郎同講座特任教授(東洋英和女子学院教授)のアレンジによるもので,冒頭,来賓代表としてUNHCR(国連難民高等弁務官)執行委員会の議長経験のある、藤崎一郎前駐米大使にご挨拶をいただきました。
その後パネルセッションの形で、外務省国際協力局緊急・人道支援課長,内閣官房副長官補付主査、法務省入国管理局難民認定室長の御3名から、それぞれの立場で、難民政策の現状と課題についてご報告いただきました。
その報告に続いて、伊藤真法学館館長(伊藤塾塾長)から、憲法理念が難民政策に極めて重要であるとのご指摘を、法務省人権擁護局長からは、人権の観点から ストップ・ヘイトスピーチなど外国人の人権を尊重することが重要だとのコメントを、さらに山本哲史同寄付講座特任准教授から、国際法研究者で難民認定参与 員としての立場から言及がありました。
フロアからの質疑も飛び交い、最終イベントに相応しい建設的な議論が展開されました。
 場所を移したレセプションでは、伊藤館長とCDRスタッフらへの謝意を表する花束贈呈があり、ミャンマー難民(ビルマ族、カレン族)がオーナーシェフを 務めるレストランから提供された民族料理やベトナム少数民族の地酒を堪能しながら、セミナーに引き続いて忌憚のない議論と交流が行なわれました。
多くの参加者から寄付講座の終了を惜しむ声が上がり、寄付元(法学館/伊藤塾)が司法試験受験生の減少という極めて厳しい環境の中にもかかわらず、寄付を継続いただいたことが賞賛されました。
 日本には未だ包括的な難民政策も、これを主に所管する政府部局もない状況であります。
同講座が支えてきたCDRを中心に官・民・産・学の連携のためのプラットフォームを設置して、今後も関係者間の情報意見交換のための対話を継続し、包括的統合的な難民政策のための必要な協力が期待されます。
ここに改めて、上記の方々はもちろん、同講座に参加し、また研究教育に貢献し、支援をされてきた関係者の方々に厚く御礼を申し上げるとともに、この成果を もって、今後ますます難民移民にかかる研究教育が日本で発展し、より良い政策立案と実施につながっていくことを祈念します。
 なお,本講座の成果物は、今後も必要に応じて活用・公開し、一般の方々からの要請に応じられる限り提供できるよう、引き続き努力を重ねていく所存であることを申し添えます


 
伊藤塾塾便り235号/HUMAN SECURITYニュース(第37号 2015年3月発行)より掲載
 

第38号 人間の安全保障と国際協力

山本 哲史 神奈川大学法学研究所客員研究員 東京大学寄附講座「難民移民(法学館)」前事務局長

皆様は政府開発援助(Official Development Assistance, ODA) について、詳細はともかく、概略についてはご存知のことと思います。その ODA に最近動きがありました。将来ご活躍の分野のご参考に、あるいは何らかの話題として頂ければと思います。 ■ ODA の歴史的背景
日本の ODA は、実質的には戦後賠償の代用としてスタートしたことはよく知られているところです。
世界というスケールでの、植民地とその宗主国、つまり支配する側とされる側の争いに関わりがあることを、ODA を考える時には無視すべきではないと思います。
帝国主義は、現代国際法が侵略戦争を違法としたことに端的に現れているように、もはや露骨な形では存在しません。
ただし本質的には、むしろ強化された形で存在します。
マイノリティがマジョリティとの関係でどう主張を維持できるか、というような問題。あるいは格差の問題。
こうした問題に、ODAは当然ながら意識を向けてきました。
格差を是正し弱者を如何に救済できるか。
そして公正な市場や経済の普及にとどまらず、形式的には政治的関与は避けながらも、実質的には援助対象国の政治や社会のあり方にも関わる「国づくり」支援の役割を ODA は担ってきたのです。
こうしたこともあり、日本の ODA には一貫した方針というものが求められるようになり、それは「ODA 大綱」として 1992 年に閣議決定として公にされて以来、2003 年の改訂を経て、去る 2015 年 2 月に「開発協力大綱」として生まれ変わったのです。
何に注目するかでその特徴の説明もいろいろありうるのですが、やはり一つ大きなポイントとして、今回もまた「人間の安全保障」の重視が語られている点が挙げられます。
■「人間の安全保障」は誰のためのものか
「人間の安全保障」(Human Security)については、この塾便りの中でも何度か説明がなされてきましたが、正直言って分かりにくい、と考えられています。
まず「人間」という「一人一人という個人」(individuals)を想定した対象と、「安全保障」(security)という国家(人々の集団)を想 定した行動を接続した造語であるので、矛盾というか違和感というか、そういう意味での分かりにくさが感じられているものと思います。
極論ですが、戦争が起きれば兵士は死にますが、その場合の兵士も「人間の安全保障」の対象であるべきであって、であるならば、国家の安全保障のために人が死ぬということ自体、「人間の安全保障」の矛盾そのものではないか、と考える方もいらっしゃることでしょう。
まったくその通りだと思います。
そこで日本の主張する「人間の安全保障」の場合は、カギ括弧「 」でくくられているのです。
これは一般的な用語とは少し違う、特別な意味で使われている言葉ですよ、ということが強調されているわけです。
日本政府が ODA 大綱や今回の開発協力大綱で触れている「人間の安全保障」とは、一人一人の人間の命を守り(恐怖からの自由 freedom from fear)、それだけでなくその人間の人間らしさを保持するためにも一定程度の充実した人生を確保するために取り組む(欠乏からの自由 freedom from want)という意味で、「個人の尊厳に近い発想の概念なのです。
したがって、たとえば難民に「人間の安全保障」は確保されねばならないのですが、しかし誰にでも関わりのある概念であることはお分かり頂けると思います。
■ ODA における「個人の尊厳」の実現
その意味では、分かりやすさだけでなく親しみやすさも追求するならば、「人間の安全保障」とは、日本国憲法 13 条と 24 条 2 項に触れられている「個人の尊厳」を、文字通り世界において実現しようとする取り組みなのです。
日本のように法の支配に立脚し、法治国家として確立した国(もちろん完全ではないとしても)とは異なり、様々な形の構造的な問題を抱える国は少なくありません。
そして多くの場合、それは社会や経済の問題として立ち現れ、そうした国の人々には貧しく将来も閉ざされたような生活を強いている場合がある。
そうした問題を解決できるような国際協力のためにお金を使う。
その理念が凝縮されているのが開発協力大綱であり、個別の開発援助プロジェクトであるべきものです。
いわゆる法整備支援も、この ODA の枠組で実施されてきていることは皆さんもよくご存知と思います。
ベトナムなどインドシナ三国に始まり、東南アジアを中心に中央アジアにまで支援対象国は拡大しています。
私も、この法整備支援に関わることになりました。
8月からモンゴル国立大学法学部で日本法の授業をするために長期赴任することになっています。
「人間の安全保障」がどう実現されようとしているのか、折に触れお届けできればと考えています。


 
伊藤塾塾便り238号/HUMAN SECURITYニュース(第38号 2015年6月発行)より掲載
 

第34号 法の実現と法の限界 ~「難民移民(法学館)」寄付講座による取組み~

堀越 貴恵 東京大学 寄付講座「難民移民(法学館)」スタッフ

法を、本来あるべき姿として実現させるにはどうしたらよいのでしょうか。法そのものが理解されていないのであれば、まずは本来の意味で理解することが求められるでしょうし、法の機能に不備があるのであれば、法を変えることが求められるでしょう。
「難民移民(法学館)」寄付講座では2009年度から2014年度の6年にわたり、難民移民問題に関する研究と教育に取り組んで参りました。
その成果は英文の学術季刊誌『CDR Quarterly』をはじめ、『難民保護を知る一問一答100 -難民認定・信憑性評価篇』(山本哲史・有馬みき共著)、『難民保護を知る一問一答100 -補完的保護篇』(山本哲史・有馬みき共著)、『難民の権利』(佐藤安信・山本哲史共訳)、『難民保護の理論と実践』(山本哲史・有馬みき・杉本大輔共 著)等の書籍を通じて、広く社会に発表してきました。
また、その集大成というべきイベントを先月21日(金)および22日(土)に実施したところ、大勢の方にご参加いただくことができました。
このイベントは、特に法学の観点から当講座が行ってきた難民保護の研究成果の蓄積により実現したものであります。
研究者と実務者との対話を生み出し、日本、フィリピン、香港、韓国とのネットワークの形成につながっています。
第一線で活躍する研究者と実務者、両者の間に対話がもたれたこと自体が大きな成果であり、国際基準の視点から本来の意味での難民保護における法の理解が促されたという意味で、大きな社会的インパクトがあったといえるでしょう。
実定法(法規範)に従った法的対応という枠組みでは、権利と義務との関係が設定されており、基本的には国家が難民の権利として保護を保障するものであります。
ここで権利として保障される保護は、一定の共通内容が確保されるようになってきたとされていますが、難民に対する支援は国だけではなく多様な主体により行われるため一様ではないという現実をみると、法にも限界があるといえるのではないでしょうか。
 
 当然のことですが、難民として認定された後も、それぞれの人生は続いていきます。
生活する場所も環境も異なる以上、生きていくうえで必要となること、支援として求められるNeedsに違いが生じるのは当然のことと言えます。
理屈だけではうまくいかないことも多いのではないか、また支援が一様ではありえないのではないかという意味で、法にも限界があるように思うのです。
法的支援をはじめ、言語の支援、生活や進学といった場面での難民の支援は、何を目的とし、その実態はどうなっているのでしょうか。
難民の権利として保護を保障するのとはまた別の側面が見えてきそうです。


 
伊藤塾塾便り232号/HUMAN SECURITYニュース(第34号 2014年12月発行)より掲載
 

第35号 難民の支援とは何か ~言語支援という側面から見えること~

堀越 貴恵 東京大学 寄付講座「難民移民(法学館)」スタッフ

難民の支援と聞いて、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか。
難民キャンプで生活する難民が、食糧配給や医療を受けている姿。
世界各地にいる難民の保護と支援活動を行う国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などの国際機関、あるいは国際NGOでしょうか。
中には、日本における難民に対する法的支援や日本語支援を思い浮かべる方もいるでしょう。
 この問いからは、少なくとも難民の支援が行われている「現場」と支援を受ける難民の「姿・状態」、そして支援を行う「組織・人」と「支援そのもの」という大きな4つの側面が浮かびあがってきます。
難民の支援が一様ではない、という言葉が意味しているものは、難民の支援を行う組織・人が多様であり、これに応じた支援の目的や支援そのものが多様であるというだけに留まりません。
むしろ、難民が生きる場の多様性や、流動性のなかで生きていくうえで必要となることが一人ひとりで異なるという側面をもち合わせている、それが根底にあるのではないでしょうか。
この点が特に際立つのが、教育分野の支援だと思います。
筆者が、毎週日曜日に参加し実態把握を試みようとしている日本語教室での取り組みは、主に言語習得、日本語の能力を身につけることを目的とした難民も含むミャンマー出身者(成人)に対する支援であり、教育分野の中でも特に言語支援の試みとして捉えられます。
2014年の5月から始まったこの取り組みも早7ヶ月が経ちました。
当然のことながら個々人で日本語習得の程度は異なります。
こうした側面をみると、言語習得のような、知識や能力を身につけることを目的とした教育分野の支援では、常に人によって必要となる支援が異なるのだということが見えてきます。
どの言語を習得するのか、という点は、その後にどこでどのような環境でどのように生きていくのか、という点と密接に関わっているように思います。
 ことばの理解の有無は、人間の生死をも分けてしまう。
ことばによって自分を守ることができる一方で、たとえば日本語がわからない、日本語が読めない・書けない、相手の話している日本語が理解できない、自分の 状況を日本語で説明できない、といった状況では、不当な労働を強いられていても気がつかない、体調が悪くても病院に行けない、暴言などによる圧力から自分 を守ることができない、などということにもつながりうるからです。
 
 また、文化や社会的背景の違いもあるでしょう。
たとえば筆者は、ことばを介して相手とコミュニケーションをとることが得意ではありません。
自分の状況や言いたいことをことばで正確に伝えることや相手の言っていることを正確に理解することは、母国語でさえ、日本人同士でさえ難しく、ことばの力は大きいものだということを日々感じています。
誤解なども日常的に起こります。
ましてや、自分の全くなじみがない言語で生活をすることを選択せざるを得なくなったとしたら、自立した生き方をするには言語習得は必須条件となることでしょう。
 
 以前のコラムでもご紹介しましたが、長期化した難民キャンプでさえ、難民が教育を受けられる機会は限られており、UNHCRによると、緊急事態のなかでは教育的ニーズに高い優先順位が与えられない場合が多く、限られた資源しか割り振られないことが指摘されています。
しかしながら、言語支援を含めた教育を受ける機会の確保は、難民がその後にどこでどのような環境でどのように生きていくのか、すなわちその後の人生や生き方を大きく左右するものでもあります。
言語支援は、今この瞬間を生きるためにも必要不可欠な支援ではないでしょうか。
それは、身体的な生命の維持とはまた別の次元で、人の生死を左右するものでもあると思うからです。


 
伊藤塾塾便り233号/HUMAN SECURITYニュース(第35号 2015年1月発行)より掲載
 

第36号 教育を受ける権利、およびその機会の保障について

堀越 貴恵 東京大学 寄付講座「難民移民(法学館)」スタッフ

教育を受ける権利は、法によってどのように保障されているのでしょうか。
日本国憲法は第26 条第一項に、すべての国民がひとしく教育を受ける権利を保障しており、第二項において、すべての国民に対する「教育を受けさせる義務」が課されています。
それでは、外国人の教育を受ける権利はどのように保障されているのでしょうか。
外国人が日本国憲法の人権享有主体となるのかという点は、最高裁のマクリーン事件判決(昭和 53 年 10 月 4 日)等の判例によると、憲法によって保障された人権の性質から外国人に対する人権を判断する、という性質説が主流となっていますが、外国人が教育を受ける 権利は憲法上では保障されていません。
その一方で、国民や外国人等の区別なく、すべての人の教育を受ける権利を保障した社会権規約第 13条、18 歳未満のすべての人の教育を受ける権利を保障した児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)第 28 条があり(両条文ともに初等教育は義務的で無償なものとして規定している)、日本はいずれの条文も批准していますから、日本においても条文上では外国人が 教育を受ける権利は保障されているといえます。
 しかしながら、こうして保障されている外国人の教育を受ける権利は、いったいどこまで外国人の教育を受ける機会の確保につながっているのでしょうか。
18 世紀に起きた自由・平等・博愛を掲げたフランス革命では、すべての人に基本的な人権の一部として学習権を認め、「万人に無償の教育機会を平等に保障するこ と」を目指し、「国家に忠誠な国民ではなく、理性に従って考え行動する、自立した市民を育てること」に主眼がおかれていたとされていますが、国民と外国人 との権利の違いについては不明確でもあります。
 
 国民とされる人々だけではなく、外国人、難民など、社会でともに生きる人々の社会的背景が多様化するにつれて、公教育のありようも変化してくるのではないかと思います。
すべての人に教育を受ける権利を保障することは、どこで、どのような環境で、どのように生きていくのか、ということと密接にかかわる教育を受ける機会を確保することにつながっています。
条文上では教育を受ける権利が保障されているとはいえ、教育を受ける機会は一様に確保されているわけではありません。
例えば、以前よりご紹介してきました日本語教室の参加者の様子を見てみますと、日本語習得のために教室で必死に勉強している人の姿が見受けられます。仕事などの理由から学習を継続させることの難しい人たちもいます。
このほか、外国人の子どもの不就学や経済的事情等により子どもが公教育以外に教育を受ける機会がない場合などもあります。
 
 外国人に権利を保障するという場合、それは国民が、他者である外国人をもてなす、という側面があることは否定できません。
場合によっては国民の血税や財産をそうした他者に軽々しく費やすという印象さえ与えることなのかもしれません。
しかし、実はこのような課題は、法律論を超えて、より本質的には利他主義や視野の広い国民の利益論からも検討しなければならないのではないかという問題意識を筆者自身は抱いています。
というのも、権利に対応する義務、というその名宛人にのみに行動を求めることで実現できる社会の福利というのは、その仕組み自体に限界があるのではないか、とも思うのです。
市民社会や、自発的な個人、そして NPO などは、そうした社会の隙間(法律論だけでは満たせない社会の豊かさ)を埋めるための機能を期待されているのではないか。日本語教育支援の現場視察を通して、筆者はそう感じるようになっています。


 
伊藤塾塾便り236号/HUMAN SECURITYニュース(第36号 2015年3月発行)より掲載
 

第31号 難民と教育 ~ミャンマー出身者に対する「日本語教室」の取組み~

堀越 貴恵 東京大学 寄付講座「難民移民(法学館)」スタッフ

日本語教育は、一般に日本語を第一言語としない人に対して(つまり第二言語として)行われる日本語の教育として認識されていますが、この第二言語としての日本語教育は、二つに区別することができます。
一つは JSL(Japanese as a second language)教育と呼ばれる、主に日本国内で第二言語として日本語を学習するもの、もう一つは JFL(Japanese as a foreign language)教育と呼ばれる、主に国外で外国語として日本語を学習するものです。
国際交流基金が発表する日本語教育機関調査(2012 年度)によると、国外で日本語教育を実施している機関は約 1 万 6,000 箇所、日本語学習者は約 399万人とされており、この数値は 2009 年度に比べて機関数は約 1,000 箇所、学習者数は約 33万人増加したことを意味しています。
この調査では、日本語学習の主な目的は「日本語そのものへの興味」、「日本語でのコミュニケーション」、「マンガ・アニメ・J-POP が好きだから」が上位を占めていました。

 では日本国内で実施されている日本語教育はどうでしょうか。
文化庁発表の日本語教育実態調査(2013 年度)によると、国内の実施機関は約 2,000 箇所、学習者は約 16 万人とされています。
この数値によれば、前年度に比べて機関数は約 30 箇所減少し、学習者数は約 1 万 7,000人増加したことになります。
都道府県別に見てみると、いずれも東京都が最多となっており、約 300 箇所、約 4 万 8,000 人とされています。
法務省による在留外国人統計(2013 年 12 月末)によると総在留外国人数は約 230 万人ですから、約 7 割の外国人が、すでに日本語を学習していないことになります。
これら日本語を学習していない外国人に関して、その実態については上述した数値からだけでは読み取ることができません(これまでに日本語の学習経験がまっ たくないのか、または短期的な学習経験はあるのか。独学か、または日本語教室等で学習した経験があるのか。日本語学習経験者の場合には、日本での滞在年数 の高い人なのか、日本に来て間もない人なのか、など。)。
それでは、国内で日本語を学習している目的は何でしょうか。
この点について上述した調査では明らかにされていませんが、同庁による「日本語に対する在住外国人の意識に関する実態調査」(2001 年度)では、生活面での向上を目的とした学習が示唆されています。
このほか、日本語教育を行う団体等によって、地域の人々との交流、生活に必要な日本語を学ぶことなどを目的として活動していることから、日本における生活で抱えている問題を解決するために、日本語を学習しているように見受けられます。
 
 ここからは具体的に、これまでご紹介してきた日本語教室の参加者に目を向けてみましょう。
この教室の参加者には、難民も含まれています。
難民である場合には、この教室で学習する以前に日本語を学習した経験があることになります。
この教室参加者から日本語を学ぶ目的を聴いたところ、日本語を習得することで新たな職業にも結びつく知識や技術を日本で身につけたい、という考えをもっており、その先には日本で身につけたことをミャンマーで活かしたい、という声もありました。
 
 難民であることあるいは外国人であることによって、日本語教育の機会や日本語習得の難しさに違いは見られるのでしょうか。
また、日本語を母語としない日本語学習者にとって共通する課題とは何でしょうか。
この教室参加者からは「職場は日本語を話さなくても済む環境である」という声を聴くことができました。
この教室に参加する以前に、文化庁から事業委託された機関で日本語習得の機会を得てきた人もいれば、他の団体やボランティア等を通じて日本語を学んできた人もいます。
ただ、継続的な学習を経てきたかといえば、そうではないことも窺えます。
この点については、仕事と日本語習得との関係性を踏まえつつ、次回以降も引き続き考えてみたいと思います。
 
 ご紹介した日本語教室ではこれまでに、ひらがなの読み・書き、カタカナの読み・書きの学習を終え、8 月初頭には実際に暑中見舞いの葉書を書いたうえで、自分で郵便ポストに投函する、といった日本の風習にもふれた学習が行われました。
現在(8 月 31 日時点)は、漢字の学習が始まったところです。漢字の学習にあたっては、漢字検定 10 級の対象漢字数 80 字の習得を目指して取り組んでいます。
希望者は、来年の 1 月に実施予定の漢字検定を受けることにもなっています。
次回以降は、引き続き日本語教室の様子をお伝えするとともに、日本語教育の機会や学習経験について、仕事との関係性を踏まえつつ、難民の子どもの教育問題についても考察を広げていきたいと思います。


 
伊藤塾塾便り229号/HUMAN SECURITYニュース(第31号 2014年9月発行)より掲載