第32号 本での外国人の生活実態は、一体誰がどのように知っている?

堀越 貴恵 東京大学 寄付講座「難民移民(法学館)」スタッフ

これまでに、ミャンマー出身者のための日本語教室における参加者の様子や聴き取り結果をご紹介してきました。
日本語習得は、新たな職業等に結びつくものとして捉えられているように見受けられます。
彼らの多くは、現在は飲食関係の仕事に就いていますが、日本語教室で日本語を習得し、ゆくゆくは通訳業や翻訳業をはじめ、技術を身につけ民族の住む地域に戻って活かしたい、さらには自分が日本語を教えてみたいという意見も聴くことができました。

 その一方で、日曜日の教室に参加した後、今日はこれから仕事があるから、と足早に帰ってゆく人もいます。
また、仕事を理由にして教室を欠席する人なども出てきています。
せっかく理想的な日本語習得の機会を得たとしても、継続が難しいという人たちがいるわけです。
各々に事情は異なりますが、月曜日から土曜日までは仕事があり、それで疲れ果ててしまう人も少なくありません。
 
 そもそも一般的に、日本における外国人たちはどのような暮らしをしているのでしょうか。
厚生労働省による「『外国人雇用状況』の届出まとめ(平成25年10月末現在)」によると、外国人労働者を雇用している事業所数は約13万箇所、外国人労働者数は約72万人(東京都が最多の約20万人、次に大阪の約8万人)とされています。
この数は、平成24年10月末からの1年間で、約7,000箇所、約4万人の増加を意味しています。
事業所を産業別に見てみると「製造業」が約30万人、「宿泊業・飲食サービス業」が約8万人となっています。

 なお、この数字は、一部例外を除く外国人を雇用する全ての事業主に政府への届出が義務付けられた平成19年10月以降、集計に基づき明らかになったもの です(雇い入れ時と離職時に、定められた項目について届出を行わなければ、その事業主には30万円以下の罰金が科されます)。
お気づきかと思いますが、届出がなされていない範囲についてはもちろん明らかになっているわけではありません。
加えて、日本の入管制度においては単純労働者には正規の在留資格が用意されていない一方で、現実的にはそうした業種で安い労働力を国内調達したいという企業の要請が少なからずあることもまた事実です。
このため、研修制度を使って事実上の安価な単純労働力の供給が行われてきた、という実態があります。
結果として、労働規範のないアンダーグラウンドな世界に実体経済と人権保障が潜ってしまっている、という問題を抱えています。
もちろん研修制度には一定の改善がもたらされたものの、本質的な問題は未だ解消されてはいないというべきでしょう。
要するに、労働市場の中には実態として把握されない領域があり、そこでは弱者がやはり劣悪な環境に結果的に置かれることになるのです。

 もちろん普通に考えれば、不法入国(旅券偽造など法を侵してまで用意周到に計画された入国形態)や不法残留(合法的な滞在許可期限を過ぎて居残り続けること)をする本人が悪く、またそれを雇う企業が悪いのです。
さすがに法がこの建前を無視することはできません。
しかしながら、もしそのような状況に「追い込まれた」人々がやむを得ずに日本に来ているという事情をも考慮した場合、それでも彼らだけが悪いと言い切れるでしょうか。
少なくとも、日本において彼らを取り締まったところで、原因は本国におけるさまざまな問題にあるわけですから、それでも彼らはリスクを冒して日本に来ようとし続けるのではないでしょうか。
つまり症状に対する適切な治療であるかが問われねばなりません。
国際社会に後押しされる形で、日本も人身取引の取締りや難民保護制度の充実を通じて、このような「人の移動」の問題に本格的な対応を始めようとしている今日、このような観点が重要になってきます。
 
 そう考えると、対応の前提となる実態把握が届出(のみ)に基づくものでは、何とも心細くはないでしょうか。
届出などできないところでの問題、そこでは弱者が理由はともあれ結果的にしわ寄せを食い、本人の意識さえも分からなくなる状況(貧しさゆえ望んで働きに来ているという認識など)の中で、結局のところ搾取されている人々がいるのではないか。
言うなれば現代の奴隷制度の一つとも言うべき状況があるのではないか。
 
 こうした問題意識から、筆者はこの日本語教室に参加し、実態把握を試みようとしています。もちろん、この教室の参加者たちはみな正規滞在者ですが、それ でも日本にいるということは、経済的な事情を含めて、何らかの社会的な背景を持っているはずであり、その実態を本人たちとの対話の中から見出してみたいの です。この意味で、華々しく社交的な国際協力とはまた別の、現実の国際社会の姿の一端がここにある、と筆者は考えています。弱者を語る時に日本人も外国人 もないはずです。それどころか、このような国籍を前提とした区別自体、見方を変えれば強者と弱者の区別の制度化であると見ることができるかもしれません。 まして、法が強者を支え弱者を踏みにじるだけの道具であるなら、いずれ人々は法を見放してしまうのではないか。そういう予感がしてならないのです。人権感 覚が問われる場面でもあるように思います。


 
伊藤塾塾便り230号/HUMAN SECURITYニュース(第32号 2014年10月発行)より掲載
 

第33号 難民法の実務や研究を知ることの意味

山本 哲史 東京大学特任准教授/寄付講座「難民移民(法学館)」事務局長

私たち東京大学では、丸6年にもわたる伊藤塾(株式会社法学館)からのご支援のもと、難民問題に関して研究と教育を展開して参りました。
おかげさまで想定以上の成果を生むことができ、継続を望む強い声をもいただいております(寄付講座は2015年3月末での終了予定)。
その集大成とも言えるイベントが11月21日(金)および22日(土)の両日、国際シンポジウムという形で盛大に催されます。
一定要件を満たした修了者には、世界の難民保護に携わる第一線の法曹集団であるIARLJ(難民法裁判官国際会議)が発行する参加証が授与されます。
ところで東京大学が伊藤塾から難民研究にご支援を頂けた理由はどこにあったのでしょうか。
一つには弱者目線を大切にする、という伊藤塾の精神だと私は考えています。
社会には必ず弱者がいます。
法は全体に奉仕するためのものであり、近代憲法は弱者を含めて,人を個として尊重することを前提としています。
法のマニピュレーターとなる将来の法曹や公務員を多く輩出する伊藤塾では、難民という弱者に社会全体への問題意識を重ねているのだと理解しています。
 
 もう一つには、仕事です。
仕事には、(他者から)与えられる仕事と、(自分から)つかみ取る仕事があるように思います。
前者は、少しでも良い待遇を手にするために、新卒の大学生などが競い合って手に入れようとするものです。
そこには勝者と敗者がいます。
しかし、いずれが勝者かは,簡単には判定できません。
というのも、与えられる仕事というのは、見方を変えれば「させられている」仕事でもあるからです。
 
 そして問題は後者です。
つかみ取る仕事、つかみ合いになってから奪い取るよりも、もっと輝ける仕事のつかみ方、それは、まだだれも気付かない仕事、自分の存在価値を見いだせる仕事を発見し、あるいは開拓することではないでしょうか。
私が知る難民支援団体では,極めて異色の、第一線の金融マンが事務局長として就任したそうです。
その方は哀れみの施しで人助けをするのではなく、投資によって持続可能な仕事を作り出そうとしています。
難民とビジネスを結びつけるというその発想と行動こそ、つかみ取る仕事の一例として挙げたいと思います。
伊藤塾は、難民を知ることで、常識を打破する開拓精神を塾生の皆様に伝えようとしているのではないかと思うのです。
 
 つい先日、米国出張に行ってきました。
NYの国連本部、ワシントンDCの世界銀行、ボストンのハーバードロースクールなど、イベントや訪問先が目白押しの超過密スケジュールでしたが、お会いする方は皆一様に、活き活きとしていました。
特にハーバードロースクールではリーガルクリニックが多彩に催されており、企業や各種の助成を巧みに織りまぜながら、社会との接点を持ち、ロースクールとしての存在価値を見出そうとしているように思えました。
ちなみにハーバードの学生の睡眠時間は平均して3時間だそうです。
勉強はもちろん、それ以上の何かをつかもうとしているのでしょう。
 
 我々東京大学は,研究成果を少しでも塾生の皆様に還元できればと願っております。
世界で困難な問題に取り組む一級の法曹実務家と議論できるこの機会に、是非とも足を運んでいただければ幸いです。
皆様の知的好奇心を刺激し,価値観を揺さぶるような貴重な経験ができることをお約束いたします。


 
伊藤塾塾便り231号/HUMAN SECURITYニュース(第33号 2014年11月発行)より掲載
 

第29号 難民と教育 ~ミャンマー出身者に対する「日本語教室」の取組み~

堀越 貴恵 東京大学 寄付講座「難民移民(法学館)」スタッフ

従来、難民に関わる事象のなかでも教育は、どのように捉えられてきたのでしょうか。
難民に対する教育は、歴史的において教育開発(教育復興)の文脈で、また人道支援・復興支援、「人間の安全保障」の文脈で、その必要性や重要性について認識され始めています。
しかしながら、長期化した難民キャンプでさえ、難民が教育を受けることができる機会は限られた状況にあります。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、子どもや若者の教育プログラムへの参加は、しばしば短期間で中断されるなど、緊急事態のなかでは教育的なニーズに高い優先順位が与えられない場合が多く、限られた資源しか割り振られないことが指摘されています。  このほか、当コラムで何回かご紹介した「 長 期 化 す る 難 民 状 態(Protracted Refugee Situation)」を背景とした庇護国での定住、第三国での定住の際における難民の受け入れや社会統合などを考える際にも、教育は議論の一つとして取 り上げられてきました。
ここでの議論は、特に教育政策や教育制度に関する議論に主眼がおかれてきたと考えられます。
基本的に国家による保護を得ることができない難民に対する教育の議論は、世界人権宣言第26 条「教育についての権利」において規定されているとおり、基本的な権利としての教育について、その機会の保障問題として捉えられてきたといえます。
条約においては、「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」第 22 条「難民である児童の保護」によって難民である子どもの保護、また同第 28 条「教育についての権利」によって子どもの教育に関する権利について規定がされています
 。
 「『人間の安全保障』のための保護と能力強化」の文脈では、教育が「人間の安全保障」の実現のために不可欠な要素の一つとして考えられています。
「人々が自らのために、また自分以外の人間のために行動する能力である。この能力を伸ばすという点が、『人間の安全保障』と国家の安全保障、人道活動、あ るいは多くの開発事業との相違であり、その重要性は、能力が強化されることにより人々が個人としてのみならず、社会としての潜在能力までも開花させうる点 にある。同時に、人々が自らのために行動する能力を強化することは、『人間の安全保障』の実現のための手段であるともいえる」と捉えられています。
こうした点からは、人間にとって教育が必要不可欠な存在であることが再認識されているといえます。
 
 それでは、日本に目を向けてみると、日本での難民に対する教育はどのように捉えられ、教育の機会はどのように確保されているのでしょうか。
難民の受け入れ方によって、教育の機会に違いはあるのでしょうか。今回から数回にわたってこの点について詳しくお話してゆきたいと思います。
 
 今回は、日本での教育の機会の一つとして、ミャンマー出身者を対象とした「日本語教室」の取組みについてお伝えします。
この取組みは、NPO 法人 PEACE が主体となり行われている「日本語教育プロジェクト」で、文化庁による「ミャンマー難民、コミュニティの社会参加に向けた日本語教育プロジェクト」の助成を受けて実施されています。
対象者はミャンマー出身者(大人)とされており、ミャンマー難民に限ったものではありません。
日本語能力を身につけることを目的として、毎週日曜日に教室が開かれています。
 
 本年 5 月の初回の教室では、日本語教室で身につけたいことに関する聴き取り調査が行われました。
多くの人が日本語教室で身につけたいと考えていた内容は、読む能力や書く能力、話す能力でした。
その他に、丁寧な言葉や日本の政治、文化等を学びたいとの声もありました。
この聴き取りを通じて、参加者が感じている日本語にまつわる課題も挙がってきました。
職場で日本語を話さなくてもよい環境であることや、日本人とのコミュニケーションの難しさ等です。
参加者のニーズをくみ取って対応する等、参加者の学びたいことを重視した取組みであることが伺えます。
初回以降は日本語能力別に 3 つのクラスに分けられ、すでに 4 回の授業が終わったところ (6 月 22 日時点 ) です。
 東京大学 CDR(難民移民ドキュメンテーション・プロジェクト)では、新たな調査プロジェクトとして、この日本語教室での取組みを観察しています。次回以降、この 日本語教室での様子をお伝えするとともに、日本での難民に対する教育がどのように捉えられ、教育の機会がどのように確保されてきたのか、ということについ て考えてみたいと思います。


 
伊藤塾塾便り227号/HUMAN SECURITYニュース(第29号 2014年7月発行)より掲載
 

第30号 難民と教育 ~国家予算の使われ方と日本語習得の機会について~

堀越 貴恵 東京大学 寄付講座「難民移民(法学館)」スタッフ

日本の国家予算が日本国籍をもつ人に使われていることは当然であると思いますが、外国人にも国家予算が使われており、その中には日本が受け入れた難民も含まれています。
日本は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が実施する国外の難民・避難民支援に対して、2013年に約2億5,300万米ドル(約260億円)の供出を行っています。
この拠出額は、米国に次いで第2位にあたります。その一方で諸外国からは、難民認定率の低さや難民の受け入れ人数が少ないとの批判を受けています。
 
 日本ではこれまでに、ベトナム、ラオス、カンボジアから日本に逃れてきたインドシナ難民(11,319人 )を受け入れてきました。
このほかに、難民認定制度により難民認定を受けた、特別な法的地位を得た条約難民(622人 )と、2010年に始まった第三国定住事業によってタイの難民キャンプに滞在するミャンマー難民(13家族63人 )を受け入れています。  日本は、国内の難民への対応を関係省庁間で協議する「難民対策連絡調整会議」において、外務省、文化庁、厚生労働省により各担当分野に応じた予算を計上しています。
1979年度以降、外部委託事業として計上された国家予算が、日本国内で難民という名目で使われており、2014年度では年間総額約7億円になります。
このうち、約2億8,000万円が難民認定申請者等の生活保護費に、約1,400万円が職場適応訓練費等に充てられています。
日本語教育を受ける機会に着目してみると、約4,000万円が、条約難民と第三国定住により受け入れたミャンマー難民に対する日本語教育事業の予算として文化庁により計上されています。
このうち約3,000万円が日本語教育の講師謝金となっています。
 
 自分が勉強する機会を得るために自分でお金を払う、ということは当然のことのように思われますが、こうした日本語習得にかかる国家予算は、どういうかたちで使われているのでしょうか。
日本語教育事業は、日本語習得を通した日本への定住を促すことを目的として、条約難民事業と第三国定住難民(第三国定住事業により受け入れたミャンマー難民)事業が委託機関によって実施されています。
具体的には、「定住支援施設における定住支援プログラム」として「日本語教育プログラム(180日間)」を行っており、第三国定住難民事業の場合には、このプログラムに加えて難民の定住先である自治体との連携により日本語教育の支援体制の構築が図られています。
日本語を習得する機会は、このほかにも文化庁による「『生活者としての外国人』のための日本語教育事業」や民間の日本語学校、地域の日本語教室、中学校における夜間の日本語学級、ボランティア等があります。
 
 しかしながら、日本語習得や支援の不十分さ、困難さ、また「日本語教育の実施期間が180日間では短い」などと指摘する声もあります。
これらの根拠はどこにあるのでしょうか。
仮に不十分であるならば、何が必要とされているのでしょうか。
国家予算の使われ方に問題があるのか、そもそも日本語教育事業に対する国家予算自体が不十分なのでしょうか。
無償の日本語習得の機会を増やすことが必要なのか、有償による日本語教育の機会を充実させることが必要なのでしょうか。
日本語習得やその機会について、実態を十分に確認することが必要であると考えます。
引き続き、この点には注目してゆきたいと思います。
 
 前回のコラムでご紹介した日本語教室での取組みにおける日本語習得の機会から,この点について少し考えてみたいと思います。
この日本語教室は、ある団体が文化庁による「『生活者としての外国人』のための日本語教育事業」の助成を受けて実施しており、この事業にも国家予算が使われています。
この事業は「日常生活を営む上で必要となる日本語能力等」を習得するための取組みや日本語指導者等に対する研修、調査研究等を支援し、日本各地の日本語教育の充実と推進を図ることを主な目的として実施されています。
 
 この日本語教室での取組みについて見てみると、現在(7月20日時点)は、クラスにより学習の進み方には違いはありますが、主にひらがなの読み書きの学習を終え、カタカナの読み書きの学習をしているところです。
そのほか、日常の生活のなかで使う会話表現の習得にも取り組んでいます。
ここでの学習は参加者が学びたいと考えている内容を取り扱っているからでしょうか、参加者の意欲も高いように感じます。
また、どのクラスでも学習の過程で、わかる人がわからない人に教えている様子がありました。
日本語学習を継続するうえでは、学習者同士のつながりができることは大切なことなのかもしれません。
 
 次回以降は、日本語を学ぶミャンマー難民が、これまでにどのような日本語教育の機会を得てきたのか、どのような目的でこの教室で日本語を学んでいるのか、ということについてお伝えしつつ、日本語習得の実態について考えてみたいと思います


 
伊藤塾塾便り228号/HUMAN SECURITYニュース(第30号 2014年8月発行)より掲載
 

第25号 「難民認定制度に関する専門部会」をご存知ですか ?(2)-日本と難民の関わりの見直しが始まっています-

山本哲史 東京大学 東京大学寄付講座「難民移民(法学館)」事務局長 大学院総合文化研究科 特任准教授

前回のコラム(「難民認定制度に関する専門部会」をご存知ですか?(1)、2014 年2月発行)において、難民行政を所管する法務大臣の私的懇談会「出入国管理政策懇談会」のなかに「難民認定制度に関する専門部会」を設置する形で、日本 の難民行政の見直しが昨年 11 月に始まっていることをご紹介しました。
個別の難民認定申請については、高度に法技術化された、事実認定と難民定義の法解釈をめぐる闘いが各国において繰り広げられているなか、日本の極端に低い難民認定率(1% を下回る)が問題になっています。
この、極端に低い難民認定率をどう捉えるべきでしょうか。日本における難民認定が不当に厳しすぎる、という見方もあるでしょう。
 また、難民該当性のない人が、難民認定申請制度を濫用している、と考える人もいるでしょう。
あるいは、難民認定審査とは、そもそも厳格なもので、然るべき結果が出ているに過ぎない、という意見の人もいるでしょう。
さらに言えば、難民が少ない(難民として保護されるべきであると認定される人が少ない)ということは、困っている人が少ないということなのだから、いいことではないか、という人もいるかもしれません。
この最後の点については、実は問題視されています。
難民認定申請の結果、難民としては認定されなかったものの、他の理由で保護される人たちがおり、その人たちの方が数が多いという状況なのです。
難民認定申請のうち、日本政府が 2012 年の 1 年間に難民認定したのはわずか 18 名ですが、他方、人道上の配慮を理由として 112 名に在留を認めています(在留特別許可など)。
日本に限らず各国における入国管理は、外国人の滞在を一般的に禁止したうえで、その中から滞在資格を認めた外国人に対してのみ滞在を許可し、その他は不法滞在者とする形をとっています。
そして在留特別許可とは、この不法滞在者の一部にいわゆる「アムネスティ(赦し)」として与えられるものです。
 
 法務省が毎年の難民保護の成果として発表している「庇護数」は、難民と認定した者、および在留特別許可などその他の庇護を受けた者を合算した人数です。
難民と認定された外国人(条約難民)と、在留特別許可を受けた外国人とでは、日本に在留できるという点では同じですが、その待遇が異なることが問題視されているのです。
もちろん、危険が待つとされる本国に送還されないだけでも有り難い措置と言えるのかもしれません。
しかし在留特別許可を受けた外国人からすれば、自分は条約難民としての各種法的権利を約束されているはずなのにおかしいではないか、というわけです。
特に、難民保護の中核とされるノン・ルフルマンの義務(生命または自由が脅威にさらされるおそれのある場所への難民の追放・送還禁止)は、条約難民には明 示的に適用がある(入管法 53 条 3 項の 1)のに対し、在留特別許可はあくまで法務大臣の裁量によるため(入管法 62 条2の2第2項)、この安全は保障されてはいないという問題があります。
 
 この問題は結局のところ、難民認定審査が適正に行われさえすれば問題にはならないものということができます。
しかし厄介なことに、難民認定審査は通常の受益行為同様、立証責任を申請者に課しており、その立証基準としても「高度の蓋然性」を求めるという運用になってきました。
後者については、難民であるとの「高度の蓋然性」が判断権者の心のうちに生まれるならば、難民と認定される、というのが本来の意味であると思いますが、運 用上は、難民の定義の中核要素とされる迫害が存在することの「高度の蓋然性」が求められることが少なくありませんでした。
 
 これまで、特に日本国内では、各種の研究に基づいて、「高度の蓋然性」を求めるという立証基準を「下げよ」という主張が繰り返されてきましたが、法務省がこれに応じることはありません。
また、「灰色の利益を申請者に認めよ」という主張も行われてきたのですが、これにも法務省は応じていません。
なぜなら、これらの主張は法的根拠が示されておらず、申請者がかわいそうだという理由だけをもって、行政の中でいたずらに難民認定審査のみを特別扱いすることはできない、というわけです。
筆者はこの法務省の判断はもっともなことだと考えています。
 
 しかし一方で、上記のように迫害が存在することの「高度の蓋然性」ではなく、難民であるとの「高度の蓋然性」が求められている、という点に、研究者を含めて気付いている人が少なかったように思います。
難民の定義は「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」を中核要素としているのであって、それは、恐怖という主観要素、つまり極端な話、幻であっても恐怖は存在しうるわけで、その点を見落としてきたのです。
ただし、主観的な恐怖だけで難民認定していたのでは、いくらでも難民は増えるでしょう。
そこで、「十分に理由のある恐怖」となっているわけです。
諸国は、恐怖の存否については本人の話を元に、供述の信憑性を判断することで決したうえで、「十分に理由のある」という部分について、一定の客観要素とし て「同じ状況に置かれたならば、誰しも申請者と同じ恐怖を感じるであろう」という、恐怖の価値判断を行うという実行を積み重ねてきているのです。
恐怖が存在していることを認めた上で、十分に理由のあるという価値判断は、一般的には一定の客観証拠があるや否やによって行われてきました(「真の危険性判定real chance test)」と呼ばれています)。
この、恐怖の価値判定は、そもそも恐怖の存在判定ではないわけですから、一定の証拠どころか一つも証拠がないというような場合には、さらに申請者が信用で きる証人として認められるべきかという、先ほどのものとはまた別の意味での、人物に対する信憑性評価を行い、信憑性ありと判断した場合には、証拠がなくと も「十分に理由のある」恐怖としての価値を認めてきているのです(これらを詳しく論じた拙稿が、国際法学会の『国際法外交雑誌』112 巻 4 号に掲載されています。興味をお持ちの方は図書館等でご覧になってください)。
 
 「難民認定制度に関する専門部会」では、こうした法技術的な問題も含めて、日本における難民保護を広い視野から検討してほしいところです。
どのような結論が出るにせよ、法の理論だけでなく、実践に基づけるか、そしてその場合も、制度運用側の経験だけでなく、難民や難民認定申請者など、保護を受ける当事者たちの目線を欠くことのないよう、バランスのとれた議論ができるかが重要になってくるでしょう。


 
伊藤塾塾便り223号/HUMAN SECURITYニュース(第25号 2014年3月発行)より掲載
 

第26号 難民の出身国情報(COI)を調査報告するという社会貢献

山本哲史 東京大学 東京大学寄付講座「難民移民(法学館)」事務局長 大学院総合文化研究科 特任准教授

先日、2013年(平成25年)における難民認定者数等が法務省によって発表されました。
この数字は毎年2月に発表されるのが慣例でしたが、近年は申請件数の増加に伴う法務省の業務過多からか、3月の発表となることが多いようです。
申請件数は3,260件(前年比28%増)、不認定処分に対する異議申立件数は2,408件(前年比39%増)と、いずれも大きな伸びを示しています。
これらは昨年申請があった件数ですが、実際に処理が行われたのは難民認定申請のうち2,642件と、異議申立のうち1,135件の、計3,777件となります。
これらのうち、2013年の1年間における難民認定数はわずかに6件(うち3件は異議申立段階における認定)と、ごく少数にとどまっています。
認定率でいえば、0.16%です。なお、難民とは認められていないものの、151件については人道配慮に基づく在留特別許可が与えられています。

 前回も触れましたが、0.16%という認定率をどう捉えるかについては、さまざまな考え方があるでしょう。
本来認定されるべき人が、判断権者に十分な心証を与えることができずに不認定となっていることも考えられます。
というのも、難民の定義の中核をなすとされる「迫害」は、常識的に考えて、公式文書や政策に明示されずに行われることが少なくないにもかかわらず、難民認 定審査の立証責任は申請者にあるため、難民に該当する事実はあるのかもしれないけれども、その立証が困難であるため認定に至らない、というケースも少なか らず存在すると思うのです。
 
 また、このようにごくわずかな認定数のために、年間3,000件を超える審査が一件ごと丁寧に行われているとしたら無駄ではないか、という意見もあるかもしれません。
審査には法務省入国管理局の職員が動員されて、書類作成、資料調査、翻訳、分析と、手間と時間のかかる作業が続きます。
異議申立段階においては、さらに1件につき3名の難民審査参与員(外部の有識者から指名される)が配置されて、膨大な資料を通読したうえ、各自さらに追加 的に資料調査など行い、そして審尋を実施し、最終的に協議を経て、意見を法務大臣に対して述べる、というプロセスになっています。
難民認定申請者の数は、年度の当初にある程度予想されているとしても、その予想を大幅に上回るような場合(近年、まさにそのような状況にあります)には、 予算不足、人員不足から、結果的に、審査期間が長引く、より正確に言うと、審査されるのを待っている期間が長引く、ということになるわけです。
 
 法務省は、申請に対する一次審査の結果を6ヶ月以内に下すという目標を設定し、これについては達成しているようですが、異義申立以降や、複数回申請(不 認定確定後に再度、再々度と繰り返す申請)については明確な対策や処理目標を設定していません。仮に、真正な難民が何年も認定を待ち続けるということがあ るなら、その期間は難民条約上保障される権利を行使できないことになるという法的な問題も無視できなくなってしまいます。
 
 もちろん、このような不都合をできるだけ減らせるように、難民認定を所管する法務省は、上記のように申請について調査を始めとする努力を行っているわけです。
この調査は、申請者の言っていることが本当であるかをある程度裏づけることができるような情報を集めようとするものです。
ときには、本人の主張が一般的に知られている事実と異なる、という形で矛盾が暴露される場合もあります。
いずれにしても、この調査は、法務省でなければできない、という種類のものではありません。
これは極めて重要な点です。もちろん申請者の個人情報や行政上の機密は確保するとしても、ある国や地域の一般的情勢や、各種の地域研究を前提とする政治・ 経済・文化などについての情報(迫害の事実を裏づけるような情報)を収集することは、審査にかかわる者の立場によらず、能力次第で実施が可能なのです。
この点に着目し、東京大学CDR(難民移民ドキュメンテーションセンター)では、難民の出身国情報(Country of Origin Information, 一般にCOIと呼ばれる)に関する質問(クエリと呼ばれる)に対してレポートを作成して回答するサービス(「COIクエリ」サービス)を展開しています。
これは、難民審査参与員をはじめとする、出身国情報を必要としている人に対して、CDRが第三者的な立場から提供するという意義をもっています。
約1年という試行期間のなかでは、反省点もありながら、総じて好評を頂きました。
そして窓口担当者を配置し、いよいよその活動の規模拡大や利用制度の精緻化を目指して本格始動しようとしています。
 
 さてこの度、われわれCDRによる『出身国情報の調査』邦訳版が発刊されることになりました。
これは、CDRと同様にCOIクエリサービスをウィーンで提供しているオーストリア赤十字社が昨年末に発刊したばかりの、COI調査マニュアル (Researching Country of Origin Information: Training Manual)を、彼らの許可を得て邦訳したものです。
 
 これまでのCDRによるCOIクエリサービスの試行段階においては、申請者の代理人を務める弁護士の方や、難民審査参与員の方などからCOIクエリを受 け付け、そしてその調査には、民間会社の社員有志も含めた様々な立場の人が参加する仕組みを整えて、最終的にCDRのスタッフが追加調査を実施しつつ品質 管理を行ってきました。
このように民間会社を巻き込んでCOIクエリサービスを展開するということは、世界でも他に類がなく、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のジュネーヴ本部スタッフからも高い評価を得ています。
一方で、調査方法やレポート作成方法などについて、品質管理の拠り所となる指針が欲しいと考えていたところ、ウィーン赤十字社のマニュアルを邦訳出版するという機会を得たわけです。
 
 今後、東京大学CDRのCOIクエリサービスは、この『出身国情報の調査』マニュアルを軸に適宜研修も実施しながら、難民保護に貢献したいという民間の 力を行政に結びつけられるよう、また一方では、認定権者から距離を置いた中立の情報源として、難民保護のインターフェースとなることを目指して展開してゆ きます。
COIクエリ調査の内容は、実のところ、学術研究の調査手法と類似しており、様々な場面でも役立つものと理解しています。
社会貢献と自分自身のトレーニングを兼ねることもできる、魅力的なプロジェクトにしてゆくため、様々な工夫を考えています。
 
 各種イベント開催の際は、この塾便りで告知させていただくほか、東京大学CDRのウェブサイトでも情報を逐次公開してゆく予定です。ご関心をお持ちの方からのご参加・ご連絡をお待ちしております。


 
伊藤塾塾便り224号/HUMAN SECURITYニュース(第26号 2014年4月発行)より掲載
 

第27号 難民保護のしわ寄せ?

山本哲史 東京大学 東京大学寄付講座「難民移民(法学館)」事務局長 大学院総合文化研究科 特任准教授

残念ながら、嫌なことは他人におしつける、というのはどこの世界にもよくあることでしょう。
昨年、社会現象と言えるほど話題になったテレビドラマ「半沢直樹」に、「部下の手柄は上司のもの、上司の失敗は部下の責任」というセリフがありました。
思い当たるふしがあったため、視聴者の共感を呼び話題になったのだと思います。  ところで、難民保護の場面においても、面倒なことは誰かに任せておいて保護をしたという評価だけ得ようとする動きも、ないとは言いきれないのが現状です。
保護をしているという体裁だけは整っているが、その実態は保護からはほど遠い、ということがあるわけです。
要するに、建前や手続が国際法上の法的義務に従う形で整えられはしているものの、その大変な部分については誰かに任せておいて、「あとはよろしく」という具合です。
イタリアにランペドゥーザ(Lampedusa)という名の島があり、この島はまさに難民保護の負担の「しわ寄せ」の最前線として、専門家の間では知られています。
この地中海に浮かぶ島は、北アフリカからやって来た庇護希望者たちで溢れかえっています。島には難民収容センターが設けられていますが、定員を遥かにオー バーしていることもあり、待遇は直感的にも良いとは言えず、また加えて、人権侵害にも相当する扱いがなされていると各所で指摘されています。
ヨーロッパ諸国は、ここに庇護希望者たちを閉じ込めているわけです。
この庇護希望者というのは、難民として保護を求めてはいるが難民であることが確定していない人々を指し、英語ではアサイラム・シーカー(asylum seekers)と呼ばれます。
法的に重要なことは、庇護を「求める権利」(right to seek asylum)は人権として全ての個人に保障されなければならないことが、国際法上認められているという点です。
つまり、庇護を求めて、少なくとも審査を受けるべく、人は自国を含めたいかなる国をも離れる権利を含めて(世界人権宣言14条ほか)、各国が庇護に関して用意している制度に「アクセス」する権利を有している、というのが建前です。
人権保障の観点からの議論ですから、この「アクセス」は形式的なものであってよいわけはなく、実質的に「アクセス」と呼ぶに相応しいかどうかが問題になるわけです。
 
 そもそも、庇護希望者をなぜ島に閉じ込める必要があるのでしょうか?
それは、上記の「アクセス」の中に、庇護申請を審査される間、不要な収容を受けないことや、適正な内容の審査を受けるための手続保障などが含まれるため、要するに目立つところで扱ったのでは不法入国者を国が思いどおりに取り締まりにくくなる、という現実があるからです。
これはどの国も同じで、日本にも当てはまります(まだ日本にはどこかの島を使って不法入国者の収容や庇護希望者の審査をという話は出ていないようですが)。
入国管理は国家主権に基づく国家の権利である一方、庇護への「アクセス」は人権ですから、その両者のせめぎ合い、という ところでしょうか。
面倒なことは最初からしたくない、というわけで、この問題自体をどこかに遠ざけてしまいたいというのが、島で収容と審査をという発想の根源にあると思います。
庇護希望者の人権は保障しているぞ、とおいしいところだけは確保しておいて、面倒な仕事は目立たないところで地味な人に任せる(この場合はイタリアの島)、という実によくありそうなパターンです。
この場合、恰好をつけているのは、欧州連合(EU)の「共通の庇護制度(the Common European Asylum System, CEAS)」という、一見すばらしい先進の制度を用意しているヨーロッパ諸国です。
しわ寄せを食っているのは、ランペドゥーザ島のあるイタリア政府であり、その結果酷い扱いを受けている(とされる)庇護希望者たち、ということになります。
 
 こうしたしわ寄せは、元々その能力が十分でないところに難しい仕事を任せようとするものですから、激しい歪みを生じさせ、ついに問題が露見した際にはとても恰好が悪いことになりがちです。
ランペドゥーザ島のケースでは、島を目指すボートピープルの海難事故による死者が年間数千人を超え、隠そうにも隠せない事態となり、ついにはイタリア海軍 が海難防止や救助のために軍艦を動かして庇護希望者を沿岸国に上陸させるということで、なんとか取り繕うことになりました。
それでも救助された庇護希望者の行き先はと言えば、やはりランペドゥーザ島になるようです。
 
 さて、ランペドゥーザ島では一体何が行われているのでしょうか。
あるイタリア人新聞記者が、庇護希望者に変装して潜入調査をしたそうです。
多くの「実態調査」なるものは調査される側が身構えた状態で行われることも少なくなく、それでは実態が見えないということで、潜入調査という手段をとったようです。
実行したファブリチオ・ガッティ(Fabrizio Gatti)というフリーの記者は、不法入国者に扮していたため、1週間の収容を受けました。
その間、同じ被収容者たちが暴力や各種のハラスメントを受け、また、衛生面や手続保障に関する様々な問題があったことをレスプレッソ誌 (L’Espresso)上で明らかにしたところ、逆にイタリア当局から事実無根として名誉毀損の疑いで捜査対象にされるということになったそうです。
真相は定かではありませんが、人目の行き届かないところでは、何があっても不思議ではないということは言えるでしょう。
イタリアン・ジョークと捉えておくのがよいのか、ガッティは昨年(2013年)末に「来年のノーベル平和賞はランペドゥーザ島に贈られるべき」と発言しています。
この問題は現在もまだ続いているようです。 ランペドゥーザそのものではありませんが、
 
 このような状況(庇護希望者の収容やそこでの扱いの内容)について、EUは司法判断を下すようになっています。
ヨーロッパ人権条約(人権及び基本的自由の保護のための条約)では「何人も、拷問又は非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰を受けない」こ とを規定しており(第3条)、昨年、ある庇護希望者(ギリシャで収容されたスーダン人)について、ヨーロッパ人権裁判所は7名の裁判官の全会一致の意見と して、ギリシャの違反を認めています(Horshill v. Greece, application no.70427/11)。司法はこの歪んだ状況の軌道修正のために、積極的な役割を果たすことができるでしょうか。
最後は政府や行政を含めた社会全体が動く必要があるでしょうが、いずれにしても、今後の展開に注目が集まっています。


 
伊藤塾塾便り225号/HUMAN SECURITYニュース(第27号 2014年5月発行)より掲載
 

第28号 難民問題への対応と法や制度の客観性

山本哲史 東京大学 東京大学寄付講座「難民移民(法学館)」事務局長 大学院総合文化研究科 特任准教授

前回、EUの庇護政策のもと、ランペドゥーザ島で何が起きているかについてご紹介しました。
ダブリンII規則(難民の取り扱いについて、EU域内で最初に入域した国が庇護審査を担当するという規則)への不満は、ご紹介したランペドゥーザ島を有するイタリアに限らず、ギリシャやスペインなど地中海に面する南欧諸国にも少なくないようです。
昨今のシリア危機に象徴されるように、ヨーロッパ諸国は、その周辺で騒乱が発生すると必ずと言っていいほど大量の難民受入に直面することになります。
これに対してEU内部で受入の負担分配を制度化して対応しようと考えられたのがダブリンII規則ですから、その制度への不満を解消するためには、そもそも難民を発生させない、という努力にも目を向けることは当然といえます。  国際法は、そうした分野(難民流出の阻止ないし抑止)においては、これまで十分な役割を果たしてはきませんでした。
国際法の基本原則が国家間の主権平等にあり、そこから派生する内政不干渉もまた特に尊重されるべき原則ですから、他国の国内のことに積極的に関与するという発想自体、国際法の構造の中には見出せないのです。
ところが、難民流失の結果、それを受け入れる負担に直面する国の側からすれば、そうも言っていられないという状況があるわけです。
少し雑な言い方になりますが、国際法上の義務を発生させることになる難民を自国領域(管轄)から遠ざけておいて、それでも事が収束しない場合に、その根本を絶つため、ようやく国際社会は重い腰を上げる、というような構図なのです。
 EUを例に考えて見ると、この構図は分かりやすいかもしれません。2013年末までに、シリアから他国へ避難した難民の数は総計で300万人を超えてい るとも言われており、その受入に直面しているEUでは、昨年(2013年)9月の時点で総額24億ドルもの支援を行っていると報じられています。
難民の多くを受け入れている周辺国のヨルダンやレバノン、そしてイラクにも、さまざまな形でそうした支援が行われており、欧州委員会はその後も適宜援助政策を展開し、要所要所でまとまった額の支援金拠出の決定を重ねています。
欧州理事会(EU加盟国の首脳などによって構成される会議)は、昨年(2013年)10月の会議でこうした難民問題をとりあげ、各種の対策と併せて、流出国の貧困削減に取り組むことも決定しています。
 
 さて、最近世間を賑わせている言葉の一つに、積極的平和主義、という考え方があります。
この考え方は、ご存知の方も多いように、本来は別の意味で使われてきました。
平和学の泰斗として著名なヨハン・ガルトゥング博士は「消極的平和 “negative peace”」と「積極的平和 “positive peace”」という2つの「平和」を対照的に示しつつ、前者が武力紛争(いわゆる暴力)のない状態を示すに過ぎないのに対して、後者は「構造的暴力 “structural violence”」が解消された状態を指すとして、その追求の重要性を説いたのです。ここで、構造的暴力とは、貧困、抑圧、差別など、社会に潜む様々な 構造的問題を指しており、要するに人々の希望や未来を押し殺すようなあらゆる脅威を意識した概念なのです。
こうした脅威からの解放を目指すことが、ガルトゥングが広めた「積極的平和」論であったわけです。難民流出の原因を根本から絶とうとすることは、ある意味では積極的平和主義の遂行という側面も有しているといえるでしょう。
 
 問題は、こうした難民流出の根源への取組は、得てして「封じ込め “containment”」などと揶揄される結果に陥りがちである、という点にあります。
先進諸国は多くの場合、自国の国境管理の技術にも長けており、正規の出入国を維持することを得意とします。
難民の大半はこうした正規の手続を経ずに他国へ逃れるわけですから、それを入国審査の段階で押し戻すことは先進諸国にとってはそれほど難しいことではありません。
それどころか、公海上に軍艦を派遣してまで不法入国者を取り締まる国もあるわけです。
そうすると、押し戻された難民たちは国境管理の緩やかな、多くの場合いわゆる発展途上国へと行き先を変えざるを得ません。
あるいは、避難したい状況下にありつつも、自国に留まり続けるよりほかに途のない人も多くいるということになってしまうわけです。
そうした場所(国)へ、国際開発援助や緊急人道支援という名目で、上記EUの如くに先進諸国から支援が届きます。
これは果たして、ガルトゥングの言う「積極的平和」の追求と呼べるものでしょうか。
 
 ガルトゥングが問題提起する「構造的暴力」は、このような、まさに表面上や形式的には正義を装いながらも、しかし実体的に、そして全体構図として差別と違和感に満ちた方法をこそ、指し示しているのではないでしょうか。
日本の国際貢献の形が求められる今、その平和主義を世界に誇れる形で提示してゆくことは、実は、難民問題への対応を考える事と切っても切り離せない内容的連関を有しているのです。
法学研究の方法論が様々に展開されてきた歴史の中で、純粋法学という方法が指向したことは、法の議論から(法以外の価値としての道徳的な)価値を徹底的に排除することでした。
それは科学が特定の価値に迎合するような形で科学性を失ってはならない、という問題意識に貫かれた方法でしたが、同時に、法学は法が社会において客観を装 い、時にはその装いの中で構造的暴力として機能しうるということに、科学の機能を超えて意識的でなければならないという難しさを提示しているのかもしれま せん。
実務家においても同様に、難民問題への対応を知り、考えることには、こうした意味で法に携わる者に法の限界と責任を意識させる側面があるのです。


 
伊藤塾塾便り226号/HUMAN SECURITYニュース(第28号 2014年6月発行)より掲載
 

第22号 条約は生きている?

CDR特任研究員 有馬みき

難民条約は、a living instrument、すなわち生きている文書である、とよく言われます。
これはどういう意味でしょうか。
それは、難民条約の解釈は、社会の変化とともに発展していくものである、ということです。
皆さんご存知の通り、本年9月には、婚外子の相続差別規定について最高裁が違憲判決を出しましたが、この判決の中でも「時代の変遷」が考慮されています。
条約の解釈についても同様で、条約の趣旨目的を基本としつつ、社会の動きを反映した解釈をしていくべきものと考えられています。

 難民条約が採択されたのは1951年のことです。
当時は、第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人の迫害の記憶がまだ生々しい頃でした。
その後も、人権の分野では数々の条約が採択されてきました。
1965年には「人種差別撤廃条約」、1966年には「市民的及び政治的権利に関する国際人権規約」と「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際人権規 約」が採択され、1979年には「女子差別撤廃条約」、1984年の「拷問等禁止条約」、1989年には「子どもの権利条約」が採択されました。
難民条約は人権を守るための諸条約のひとつと位置づけられるものであり、このような他の人権条約の進展を解釈に取り込んでいく必要があります。

 難民条約の難民の定義の中にある「迫害」概念の理解がその一例です。
難民条約が採択されて以来、世界各国で難民認定申請が行われていますが、今では、おそらく条約が作成された当時には想定されていなかっただろうと思われる問題が多々あります。
たとえば、ジェンダーに関連した迫害の問題です。
ある社会において女性のベール着用を強制することが迫害につながることもあれば、同性愛が非合法とされる社会において同性間の性行為に対して厳しい刑罰が課される場合に、その科刑が迫害に相当すると考えられるようになっています。
難民条約の定義上、難民に該当する要件としてジェンダーは特に言及されていませんが、その後の社会の認識に大きな進展が見られ、学術研究等も発展してきたことで、各国の判例や実践においてもジェンダーに配慮した解釈がなされるようになったのです。

 難民条約の解釈が発展していくのと同時に、各国の難民認定制度も進化を重ねています。近年大きな役割を果たすようになってきているのが、「補完的保護」という概念です。
補完的保護は、難民認定申請について判断する際に、難民条約に基づいて判断すると不認定となる場合でも、なお保護の必要性が認められる場合がある、という認識に基づいて進展してきました。
難民条約による保護を補完するもの、という意味で「補完的保護」と呼ばれています。
本年10月にCDR(難民移民ドキュメンテーションセンター)主催で実施したサマースクールでは、この「補完的保護」をテーマにしました。

 ヨーロッパ各国では、難民認定申請に対する判断を行う際に、難民として認定するか否かの判断だけでなく、各種人権条約を考慮して補完的保護を要するか否かの判断も同時に行う手続になっています。
日本でも、難民不認定処分を受ける場合でも人道的配慮に基づいて在留が許可されるケースがありますが、それは権利に基づくものというよりも、まだ恩恵的要素が強いように思います。
人道的配慮の判断について難民審査参与員が意見を付すことについても、事実上、一部の参与員によって行われているにすぎず、制度化されてはいません。

 いま、出入国管理及び難民認定法の改正に向けて、政府内で検討する動きが始まっています。
実際に法改正に至るまでにはまだ数年かかると思われますが、時代の変遷や国際社会の動きも十分考慮した上で、制度が改善されていくことを切に望みます


 
伊藤塾塾便り220号/HUMAN SECURITYニュース(第22号 2013年12月発行)より掲載
 

第23号 移動する人々と子どもの教育 Education for Migrant Children

三浦純子 東京大学 難民移民ドキュメンテーションセンター(CDR) 学術支援職員

人の移動が容易になった現在、子どもは複雑な教育環境におかれています。
日本においても、親の都合で移動せざるを得なくなった子どもたちは、移動先での学校に適応することもあれば、適応できずに複雑な想いを抱えたまま成長することもあります。
あるいは、途上国からの移民、特に親が正規の滞在資格を持たない場合において、その子どもに与えられる教育の機会は狭められるでしょう。
先進国においても途上国においても、移動にともなって、未来がある子どもの教育を考えることは重要なテーマです。

 国境沿いに生きる人々の教育機会はどうなっているのでしょうか。
ミャンマーで迫害を受けた人々や生活に不安を抱えた人々の多くが、難民や不法移民となって、タイに逃れています。
民主化の動きに伴って、若干の減少は見られたものの、9つの難民キャンプにいまだ13万人の人々が暮らしています。
キャンプ内では様々な国際的な支援が施されており、人々が30年間の避難生活を送っているなかで、教育環境は整ってきました。
ミャンマー語、カレン語(避難者が多いミャンマーの少数民族カレンの言語)、英語などの教育も受けることができ、高校までの勉強をすることができるようになっています。
タイの難民キャンプでの教育の質が高いと評判で、ミャンマー国内から子どもだけをキャンプに留学させる親もいるそうです。
キャンプ内には大学こそないものの、大学進学を目指す子どもたちのための教育機関が設置されています。
国境沿いにあるすべての難民キャンプから毎年60名が選抜され、入学します。
 
 筆者は、現地調査に訪れた際、先生や生徒と話をする機会に恵まれました。
高い競争率を突破して入学する学生たちにとって、またそれを支える教師たちにとって、この学校で教育に携わることができることは、一つのステイタスになっているようでした。
将来の夢を聞いてみると、難民キャンプのリーダーになりたい、あるいは支援NGOで働きたい、といった想いを語ってくれました。
キャンプ内の子どもたちは、教育を受けることができる年齢のときには、将来への希望をもって、生き生きとしています。
しかしある時、労働することもできず、タイの国民になることもできない、ましてやミャンマーに帰ることすらできないという現実に触れて、その後の未来がないことに気がつきます。
唯一の希望は米国やカナダなど第三国への再定住制度を利用してキャンプを抜け出すことですが、しかしその機会も一部の人にしか与えられていません。
 
 ミャンマーからの難民や移民のためにメータオ・クリニックという診療所を運営しているシンシア・マウン女医は、自身も難民としてタイへ逃れてきた一人です。
彼女は難民の状況をこう説明します。「難民キャンプに入ることができる人は援助も受けられるが、入ることができない人々の状況が深刻である。」
経営が圧迫されるなか、シンシア医師はほぼ無料で診療するという姿勢を変えません。
医療費が高いから、という理由で、病気がかなり進行してから診療所に駆け込む人が多いのを憂慮してのことです。
 
 キャンプの外にいる子どもの教育に対処するため、移民のための学校が数多く設立されています。
メーソット(タイ北部、ミャンマーとの国境に接する町)にあるsky blue schoolもその一つです。
メーソットのゴミの山でプラスチックなどを集めて生活をしているミャンマーの移民がいます。
強烈な臭いがするその横にテントを張って暮らす彼らは、滞在許可を持っておらず、常に不安と隣り合わせです。
こうしたゴミの山の隣に、sky blue schoolは設置されているのです。
また、ストリートチルドレンとなった子どもたちにも教育の機会を与えたいと、校長がギターと歌の魅力で生徒を呼び寄せているAgapeという孤児院が活動しています。
こうした移民学校に通う子どもたちの親は、多くの場合、正規滞在ではないため、いつ逮捕されるか分からないという不安定な状態にあります。
学校から家に帰ったら両親がいなくなっているかもしれない、という不安のなかで、子どもたちは将来を思い描いて勉学に励んでいるのです。
将来の可能性をもつ優秀な子どもたちが、十分な教育機会を与えられないでいます。
せめてキャンプの外の人々にも再定住するチャンスが与えられることはないのでしょうか。未来の世界をつくる子どもたちの教育は、何より重要な課題です。


 
伊藤塾塾便り221号/HUMAN SECURITYニュース(第23号 2014年1月発行)より掲載