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元沖縄県知事
故 大田昌秀先生を偲んで

沖縄スタディツアーで大変お世話になった大田昌秀先生が、2017年6月12日、ご逝去されました。
ご生前のご厚情に深く感謝し、先生のご遺徳を偲びつつ、先生のご功績の一部を紹介させていただきます。
 

 

故 大田 昌秀先生のご活躍の経歴

1925年

6月12日 沖縄県久米島具志川村(現久米島町)に生まれる。
仕事をする母を支えつつも、学業成績は非常に優秀であったが、進学する学費がなかったため、母校の用務員を勤めた。

1941年

沖縄師範学校に入学。

1945年

鉄血勤皇隊「千早隊」の一員として動員される。
沖縄師範学校在学中、鉄血勤皇隊の一員として沖縄守備軍・第32軍に動員され、情報宣伝部隊「千早隊」に所属する。
1945年10月に捕虜となって生還。

1946年

沖縄文教学校卒業。

1948年

沖縄外国語学校卒業。

1954年

早稲田大学教育学部卒業。
日本・アメリカの留学試験に合格し、まず日本への留学を選択し、早稲田大学で英語を学ぶ。

1956年

アメリカのシラキュース大学大学院修了。
その後アメリカへ留学し、ジャーナリズムを学ぶ。

1958年

琉球大学講師(文理学部社会学科)となる。

1968年

琉球大学社会学科教授となる。
その間、東京大学新聞研究所等でも研究をする。

1990年

沖縄知事選出馬、当選。以後、2期8年間務める。
琉球大学教授の職を辞し、沖縄県知事選に出馬。
革新統一候補として、現職の保守系西銘順治氏を破り、当選する。在職中には次に代表される数々の出来事にかかわった。

1994年

「平和の礎」(平和祈念公園内に設置されている慰霊碑。世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑)の工事が起工。
太平洋戦争・沖縄戦終結50周年に当たる1995年に完成、除幕。

1995年

アメリカ海兵隊員等による少女暴行事件に抗議する県民総決起大会に参加し、日米地位協定の改定を訴える。
同年、政府により沖縄代理署名訴訟を起こされた。
地主が米軍基地として使用されることを拒絶し、土地賃貸借契約を締結しない場合、駐留軍用地特別措置法に基づき、知事の代理署名等を要件としてその土地を強制的に基地として使用することができるが、大田先生は署名を拒否したため、政府は代理署名を求めて提訴した(1996年に最高裁で大田先生側の敗訴が確定)。

1998年

任期満了に伴う沖縄県知事選挙で、稲嶺惠一氏に敗れ、落選。

2001年

参議院議員通常選挙に社会民主党より立候補し、当選。
一期を務め、政界を引退。

2013年

特定非営利活動法人 沖縄国際平和研究所を設立。
沖縄国際平和研究所は、
(1) 国内外の戦争と平和について学術的分野から多角的に研究を進めるとともに、さる沖縄戦で県民が経験した真実とその要因を徹底的に解明すること
(2)沖縄の伝統的平和思想の由来を探り、県民が誇りにする平和希求の強さを踏まえ、国際平和の創出に寄与できる体制を培うこと
(3) 沖縄にとっての諸悪の根源をなす基地問題の解決を図り、「基地の島」を「平和のメッカ」に変える活動を先導すること
(4)「積極的平和」の醸成に努め、平和教育の推進と「基地経済」からの脱却、自立経済の確立に努めること
(5)反戦平和志向の人材育成と国際的ネットワークづくりを展開すること
を目指し、活動してきました。
伊藤塾で開催される「沖縄スタディツアー」でも訪問地の1つとして何度も訪れており、ツアー参加者は多くのことをここから学んでいる。

2017年

6月12日92歳の誕生日にご逝去。
7月26日、県民葬が営まれる。約2,000人が参列。
7月29日、故郷久米島で町民葬が営まれる。

沖縄国際平和研究所

2017/9/30で閉館となった沖縄国際平和研究所

大田先生と伊藤真塾長

大田先生と伊藤真塾長

大田先生が深く関わられた慰霊碑

太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して
戦没者全員の氏名を刻んだ記念碑

平和祈念公園
平和の礎

沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられた全ての人々の氏名を刻んだ記念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設した。
刻銘碑は、平和の広場を中心にして放射状に円弧の形で広がりをもつ5つ折タイプ69基、3つ折タイプ49基の合わせて118基、刻銘版は、1,220面に及び、約25万名の刻銘が可能。戦没者の追悼と平和祈念・戦争体験の教訓の継承・安らぎと学びの場の3つを基本理念としている。
メイン園路は、その中心線が6月23日の「慰霊の日」における日の出の方位に合わせて設定されている。
平和の広場は、断崖絶壁から海岸線、波打ち際を眺望できる位置に設置されています。
平和の広場の中央には「平和の火」が灯されている。この「平和の火」は、沖縄戦最初の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」及び長崎市の「誓いの火」から分けていただいた火を合火し、1991年から灯しつづけた火を、1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し、灯したものである。

(紹介文: 糸満市ホームページより)

平和の火

平和の広場の中心。
沖縄を中心とした世界地図でデザインされています。

メイン園路

園路は平和の火(平和の広場)を中心に放射状に広がっていますが、メインの園路が慰霊の日(6/23)の日の出の方角に設計されています。

検索コーナー

24万余りの刻銘がどのブロックに刻まれているかを検索できます。

刻銘碑

打ち寄せる波をイメージしたデザイン。
毎年、慰霊の日に追加・修正されています。
沖縄師範学校男子部の生徒たちを祀る 慰霊の塔

沖縄師範健児之塔

教員養成機関であった沖縄師範学校男子部から動員され、教師19名と学徒226名を含む同窓生290名を祀る。1950年建立。米軍が沖縄本島に上陸する前日の1945年3月31日に全職員生徒へ防衛召集。386名の学徒は陸軍2等兵の身分を与えられ25名の教職員と共に動員された。
学徒は負傷兵の治療の補助、陣地構成、炊事、立哨、情報収集や伝達などの任務を担った。それぞれの隊では摩文仁撤退後も弾雨の中、伝令や水汲みなど危険な任務を行っていたが、残存兵と共に斬り込みを命じられた学徒もいた。
また、「敵中を突破して北部へ行き再起を図れ」との解散命令により、数名単位に分かれて壕から脱出を試みた学徒も米軍の掃討戦により多くが犠牲となった。
「沖縄師範健児之塔」の後方には、1946年3月に金城和信氏により建立された「健児の塔」や沖縄師範学校の生存者や関係者により、友情・師弟愛・永遠の平和を3名の学徒により表した「平和の像」が並列して設置されている。

(紹介文: 糸満市ホームページより)

情報宣伝隊は、大田先生が所属された部隊。
通称「千早隊」

敷地内には、多くの歌碑が建立されています。

平和の像

大田先生らが制作建立された像。
右側が「友情」、中央が「師弟愛」、左側が「永遠の平和」を表している。

健児之塔

1946年建立。一番初めの健児之塔。

このほかにも、沖縄県内にはさまざまな慰霊碑が立てられています。「2017年沖縄スタディツアー LinkIcon 」では、 「平和の礎」「沖縄師範健児之塔」「白梅の塔」「ひめゆりの塔」を訪問しました。

大田先生の書斎・愛書・資料など

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2017年9月30日に閉館になった沖縄国際平和研究所

命どぅ宝 <沖縄戦が多くの犠牲を払って得た教訓>

私は沖縄県知事時代、平和行政の三本柱として、
(1)平和祈念資料館の移設と展示内容の充実
(2)敵味方の別なく、軍人・非軍人を問わず沖縄戦で戦死したすべての名前を刻印して永久に残す「平和の礎(いしじ)」の建立
(3)沖縄国際平和研究所の創設
を目標に揚げました。
幸い県議会と県民のご支持を得て前二者の目標は実現できましたが、(3)の目標は時間切れで実現できませんでした。
そのため県から身を退いて後、個人的平和研究所を設立、沖縄戦と基地問題のほか平和問題などの研究に取り組んできました。しかし、個人的研究所では時代の要請にこたえることができないだけでなく、沖縄が直面している解決困難な問題にも適切に対応できないことを痛感するようになりました。
そのため、今年2013年の新年を契機に決意も新たに個人的研究所を念願の沖縄国際平和研究所に衣替えすることにしました。が、何分新芽を出したばかりなので、江湖の皆様お一人ひとりの物心両面からのご支援を賜り立派に育て上げることを切願する次第です。

(沖縄国際研究所ホームページ「ごあいさつ」より)
 
 

※ここから下のコーナーの写真は、画像をクリックすると大きい画像で見られます。

沖縄戦が始まるおよそ半年前のこの日、沖縄は県都那覇を中心に各地が米艦戦機による猛烈な空襲を受けた。那覇市の被害は特に大きく、市街地の90%が焼き払われ、軍民1,6000人が死傷し、県民1か月分の食糧、大量の武器・弾薬を失ってしまった。この攻撃は10・10(じゅうじゅう)空襲と呼ばれている。

10・10空襲により廃墟と化した、那覇市街地の様子。空襲中の写真(左)と比べると、破壊の凄さがわかる(1945年)


生命を助けるビラ。6月12日から21日の間に米軍が沖縄の前線地域にくまなく撒いた降伏を勧告するビラ。何百枚も撒かれたという。

太平洋戦争下、米軍が撒いたさまざまな宣伝ビラ

宣伝ビラのコーナーの一角

太平洋戦争下、日本軍が作成した米軍兵士向けの宣伝ビラ

太平洋戦争下、日本軍が作成した米軍兵士向けの宣伝ビラ


左上:日本軍の攻撃を受け、黒煙に包まれる米軍基地。(米国ハワイ ヒッカム飛行場 1941年12月8日)
左下:日本軍の攻撃で破壊、炎上する米航空機。(米国ハワイ ヒッカム飛行場 1941年12月8日)
右上:日本軍関係者が収容された、県内最大の収容所。(金武町屋嘉 屋嘉捕虜収容所 1945年6月27日)
右下:米軍に占領された部落。米軍のテントが立ち並ぶ。(座間味島座間味 1945年)

日本軍による空からの攻撃に備える米軍の機関砲。湾内の海上基地には多くの艦船が停泊している。(外地島(ふかじしま)1945年6月24日)

読谷村の海岸を埋め尽くす米軍艦船

「訊問條項」。収容所に入る日本兵の訊問後に通訳が記入したり、捕虜本人が記入した。なお「捕虜になることは恥」とされていた当時、自分はおろか、郷里の家族に非国民のレッテルが貼られることを恐れ、名前を含め、本当のことを話さない、書かない捕虜が多かったという。