沖縄スタディツアー参加者の声

沖縄へ行って学べたこと

                                 
公務員受験生 小川 泰平

 

1.「沖縄スタディツアーに参加したきっかけ・理由」

今まで沖縄県に行ったことがなかったので、この機会に現地へ行き、学校の授業やニュース等で伝えられていた沖縄県の歴史や現在の諸問題を肌で感じてみたいと思って参加しました。実は、弟が修学旅行で沖縄県に行っていたのですが、話を聞く限りでは観光三昧だったようでしたので、戦争の話を現地の方の口から是非ともお聞きしたいと思っておりました。
 

2.「記憶に残った視察先と感想、抱いた考え、衝撃を受けたこと等」

二つ挙げさせて頂きます。一つ目は小橋川先生のご講演です。小橋川先生の「理想主義であっても戦争はすべきでない」という力強い言葉をお聞きした時、大変勇気を頂きました。それまで私は「防衛のためであれば、やはり軍事力を保持することは仕方ないのではないか」と考えておりました。しかし、心の奥底にある「戦争は嫌だ」という思いに素直に従って国策を考えても良いのだと、背中に手を当てて頂いているように感じました。二つ目は、「かなぐすく」での島唄ライブです。歌手の方のお話や沖縄の言葉での歌を聞いているうちに、私のおばあのことが自然と思い出され、泣きそうになったのを何とかこらえておりました(笑)。私のおばあは、戦時中のことを時々話してくれます。嫌だったこと、悔しかったこと、辛かったことを、少しずつ心の箱の中から出して私に聞かせてくれます。島唄ライブではそれらの話が思い起こされ、自分のおばあの話をもっとしっかり聞いてみようと思いました。
 

3.「ツアーで得たもの」

現地の問題は現地に行かないと分からない。遺骨収集の話を聞いたり、オスプレイが飛ぶ音や米軍の車が一般道路を走っている様子を目の当たりにしたりして、一層この思いが強くなりました。まずは教科書やニュースを通して現地のことを知り、次に自分の体で現地を経験することでやっと実情を理解できるのだと思いました。現地入りしない限りは「知らない」と同義だと肝に銘じます。
 

4.「まとめ」

観光で沖縄県に行っただけでは決して得ることのできない貴重な学びの機会を提供して頂き、ありがとうございました。現地の方々のお話や視察を通して、戦時中の沖縄の悲惨な状況や現在の沖縄が抱える問題に対する理解を一歩進めることができました。このツアーでの学びを官僚となってから活かしていきたいと思います。

沖縄スタディツアー参加者の声

当事者としての沖縄スタディツアー

                                 
司法試験受験生 T.S

 
今回の沖縄スタディツアーの参加は、とても意義のあるものでした。私は沖縄の出身で、多少なりとも沖縄が抱える様々な問題を見聞きし暮らして来たつもりでしたが、ただ生活するだけでは見えてこない過去から現在まで続く根深い問題を改めて認識し、時間をとって考える良い機会となりました。
 初日は、座喜味城の訪問から始まりました。私のルーツにも関係がある史跡であり何度も訪れた場所ではありますが、戦争とも深い関わりがあるとは知らず、戦中には高射砲陣地があり、戦後はレーダー基地があったという話に驚きました。読谷村役場では、読谷村という小さな、だからこそ地域住民の声をしっかりと掬い上げることが出来ている地方自治体のお話を伺い、真の民主主義が実践されている姿を目の当たりにした気がしました。チビチリガマでの小橋川清弘様のお話は、生々しく、80年近く前に起きた凄惨な出来事が今そこに生じているような感覚を覚えました。また、その後に開催された講演会では、戦後から現在も続く基地問題が、いかに我々の日常に直接関わるものであり、解決されねばならない問題かを再認識させるものでした。その解決に向けての読谷村の取り組みの話の中で、米国大統領宛に村長から直接手紙を送ったお話や読谷村の文化水準の高さを見せるために村のイベントに米軍高官らを招いたお話等は、本来は国が担うべき外交をさながら一地方自治体が行っているようにもみえる取り組みであり、統治の観点からも大変興味深いものでした。
 2日目の日中は、私の故郷とも言える首里地区を散策し小学生の時に学校まで通った見慣れた道にノスタルジーを感じ、琉球王朝の栄華を偲ばせる史跡、街並みから溢れ出る誇りを体感しました。本土からの参加者の方々にこの感覚を共有して頂きながら懐かしい故郷を紹介出来た事は大変嬉しく思いました。夕方、沖縄戦遺骨収集ボランティアに従事されている具志堅隆松様の講演を拝聴し、未だに遺骨が遺族の手に戻らないという状況に苦い思いをいたしました。具志堅様のお話は、口調こそ静かで丁寧であるものの、熱い思いを持って取り組まれていることがひしひしと伝わって来、感銘を受けました。
 最終日である3日目、戦後米軍統治下の沖縄で県民に希望を与え、活躍した瀬長亀次郎の資料館を訪れ、民衆を率いる真のリーダー像を目にしました。轟壕にも入らせて頂きましたが、幼い頃より話に聞いていた「ガマ」の内部は、一筋の光もなく、狭い中岩肌がゴツゴツと危険で歩くのもままならず、蒸し蒸しとしており、想像以上に劣悪な環境でした。これは知識では知っていたとしても、実際に体験してみないとわからないものでした。短時間滞在するだけでも辛く、この暗闇の中、多くの人々が明日の命もわからずに身を寄せ合って生活していたという事実に強い衝撃を受けました。平和祈念公園で厳粛な雰囲気の中、説明をお聞きし黙祷を捧げた後、ひめゆりの塔及び資料館を訪れました。あどけない笑顔の写真がずらっと並んでおり、まだ幼い中戦場で命を落とされた方々、その方々の戦争がなければ訪れたであろう輝かしい未来を思うと無念でならず、その後訪れた魂魄の塔では、黙祷を捧げると共に決して再び戦争の惨禍を引き起こしてはならないと固く誓いました。
 上記のプログラム以外でも様々な目標を持ち伊藤塾で学ぶ全国の仲間たちと交流できたことは、私にとって非常に大きな財産となりました。法律家となる決意を新たにしたきっかけを与えてくれ、法律家になった後にも生きる姿勢を学べたツアーに参加出来たことは、非常に幸運であったと思います。伊藤塾のスタッフの皆様、参加者の方々には、心より感謝しております。ありがとうございました。

沖縄スタディツアー参加者の声

沖縄スタディツアーこそ最高の学びの場

司法試験受験生 /  S.Tさん

 
毎年参加し、同じ場所、同じ先生方のお話を聞いても、常に新たな学びがある、それが沖縄スタディツアーの最大の魅力だと思います。それも、普通の観光ツアー、平和運動のツアーとは全く違う、伊藤塾ならではの訪問先、偉大な先生方との出会いがあります。
伊藤塾で勉強開始した直後から参加し始めて4回目となりましたが、改めて多くの学びと気づきがありました。
 
1日目読谷村にて
小橋川清弘さんのお話は、ツアーの最大の楽しみの一つです。同じお話を伺っても常に新たな気づきがあり、また年々お話が深く、壮大になっておられる印象を受けます。
80名を超える住民がいわゆる集団自決、「社会的強制死」を余儀なくされた「チビチリガマ」を訪れ、詳しいお話を聞きながら、黙祷を捧げます。同じお話を聞いても、自分の理解がいかに浅かったかを気付かされます。痛ましい歴史から何を教訓に学ぶのか、前回聴いたお話から、教育の持つ影響力について印象を強く持ちました。しかし、教育の問題に解消してはならない、当時の大本営の方針「軍官民共生共死」が根底にあったこと、軍隊は国民を決して守らないこと、を今日的な教訓として学ぶ必要があるということを説明されました。改めて、深く心に刻まれるお話でした。
講演会では、読谷村の基地解消への道のりと、読谷村独自の街作り、文化の継承・発展について詳しくお聴きしました。今回はさらに第2部として、日米関係の問題、SACO合意から、現在の政治情勢まで壮大なスケールのお話を準備され、大変感銘を受けました。さらに何時間もお聴きしたいと思うほど引き込まれました。2019年に本土で行われた天皇代替わりに関連する諸行事、即位の礼、大嘗祭等がいかに異常なものだったか、昭和天皇の拝謁記から読み取るべきこと、など改めて多くの気づきがありました。
普段何気なく過ごしてしまう日常のニュース、出来事について、沖縄の人々の目にはどう映るか、読谷村の人々は、この先生は、とお話を聴きながら想像力を広げていくことで、自分の思いもよらなかった視点や気づきにハッとさせられます。普段の勉強とは全く質の違う生きた学びがあると思います。
講演会後の懇親会を含めて、トータル8時間ほどお付き合いいただき、小橋川さんには本当にいつも感謝の気持ちでいっぱいです。小橋川さんのお話が聞けるだけでも、また来年も参加したいと思えるほど、素晴らしい方だと感じます。
 
 
2日目伊江島にて
昨年に引き続き訪れた伊江島。1日中雨風にまみれた昨年とは打って変わって、最高の快晴に恵まれた今回は、全く別の場所に来たかのような素晴らしい景色でした。特に伊江島のシンボルといわれる城山、「タッチュー」の険しい坂をみんなで登り、頂上から見下ろした島の景色は、しっかりと瞼に焼き付けました。
反戦平和資料館館長の謝花悦子さんのお話は、昨年に引き続きお聴きして、本当に深い感銘を受けました。お聴きしている間、何度も涙が出てきました。冒頭に、「沖縄戦から74年経ちますが、戦後と思ったことは一度もありません。」とおっしゃいました。この言葉は、本当に深く、重いと感じずにはいられません。「沖縄戦」というと過去の出来事と考えてしまいがちですが、いま現在に至る苦難の連続だということを、1時間半のお話全体を通じて、深く心に刻まれました。謝花さんの今日までのひとかたならぬ苦難の体験、義憤というべき、現在の政権に対する激しい怒りのお言葉の数々、阿波根昌鴻さんのたたかいの歴史、これらは2度お聴きしてこそ、より深く理解し、共感できるものだと感じました。「私ごとき者の話を聞くために2年も続けてここへ足を運んでくださる先生や皆さんは本当に素晴らしい。これからの未来に希望が持てる。」と何度もおっしゃって、本当に胸が熱くなる思いでした。普段の書物や映像を通じての勉強では絶対に得られない、生きた体験と学び、出会いがあります。
講演会後に謝花悦子さんに感謝の気持ちをお伝えし、握手させていただきました。温かさと、力強さを感じました。
そして、帰り際にこの講演会場の壁に貼られていた立派な文字を深く心に刻みました。
 
「平和の最大の敵は無関心である
戦争の最大の友も無関心である」
 
3日目久高島にて
本島からフェリーで20分ほどで初めて訪れた久高島。今までの沖縄スタディツアーにはない、新たな体験ができました。事前勉強会で山本先生から久高島の概要を説明いただいたおかげで、あらかじめ強い関心と問題意識を持って訪問することができました。現地ではガイドさんが車で場所場所を案内いただき、とても親切に説明いただきました。小さな島に本島と同じ時が流れているのに、全く違う生活空間、文化、習俗が息づいていることに新鮮な感動がありました。見るもの、聞くもの、すべて初めてで、言葉も地名も聞き慣れないことばかり。なぜこのような習俗が今にも続いているのだろうという知的好奇心が掻き立てられるひと時でした。3時間のツアーがほんの一瞬の出来事に感じられましたが、また訪れてみたいと思う場所でした。
 
 
上記以外にも多くの気づき、感動がありました。
こうした素晴らしい体験ができるのも、伊藤塾の先生方やスタッフの皆さん、現地のバスガイドさん、そして一緒に参加する皆さんとの楽しい交流があってこそだと思います。皆さんとの楽しい交流のエピソードも、ここに書ききれないくらい数々のものがあります。
沖縄スタディツアーを20年の長きにわたり、営々と続けてこられた伊藤塾長はじめ、先生方やスタッフの皆様に心より敬意を表します。謝花悦子さんが繰り返し感動の気持ちを表現されたように、伊藤塾で法律を学び、現地で生きた勉強、体験をすることは、将来にわたって生きた力になるものだと改めて感じることができました。
 
    常日頃から沖縄の問題を自分自身のものとして捉えること、相手の立場に立って想像すること、共感力を高めることは、憲法をはじめ法を学んでいく上で、簡単ではないがとても大切なことだと感じます。
 
    沖縄スタディツアーの経験を糧に、今後とも学びを続けていきたいと思います。
 

沖縄スタディツアー参加者の声

様々な感情、エネルギーが吹き込んできた3日間

                                   
司法試験受験生 匿名 Aさん

 
スタディーツアーに参加する前まで、私は沖縄のことは塾長が講義の中で発言していることや、たまにテレビやメディアで取り上げられているのを目にするくらいで、あまり知りませんでした。
もっとも関心がない、というわけではなく、貧困問題などがニュースで取り上げられるたびに、「どうして沖縄ばかり」と気にはなっていましたが、ただ日々の日常に忙殺されて、なかなか自ら知るためのアクションは起こせずにいました。
そんな中伊藤塾がスタディーツアーをしているのを知り、一人ではなかなか行動が起こせない私も、ツアーに参加するという形で沖縄を知る扉を開くことができました。
 
ツアーに参加して、「こんな事実を知った」「あんなことを知った」など、知らなかった知識を知ることもできました。
でも、私がツアーに参加してよかったと、心から思えるのは知識を得られたからではありません。
それは、自分の肌で沖縄のエネルギーや人々の感情を感じることができたからです。
 
沖縄は歴史ある独自の文化を持った、美しい地にある、素晴らしいところです。
ツアーで世界遺産を巡ったり、交流会で沖縄音楽の生演奏を聞かせていただいたりと、自分もそんな沖縄文化を肌で感じることができましたし、ツアー中に講演やガイドをしてくださった方々の言葉の端々にもそんな沖縄文化への愛と誇りが感じられました。
 
でも、こんなに素晴らしいところなのに、どうしてこんな悲しい目にばかり合っているのか、そんな悲しい感情もたくさん感じた3日間でした。
誰だって幸せになる権利はある。
でもこんなに素敵な文化と土地に恵まれた沖縄なら人よりもっとたくさんの幸せが降ってきてもいいくらいなのに。
けれど現実はその正反対のことが沖縄に起こっている、そう感じて、悲しいと同時に、これはおかしい、絶対に正していくべきだし、正されていくだろう、そう感じました。
 
沖縄の人々は強い。
世界には理不尽で過酷な状況の渦中の人々や国々はあるけれど、どうしても、その困難にひれ伏してしまったり、目をそらしてしまったりして、戦おうとしない人は多いと思います。
でも沖縄の人は違う。
苦しいし、辛いけれど、声をあげ続け、戦い続けている。
これだけでも本当に尊いことで、絶対にこの違いは将来大きな違いを生む、と思いました。
そして、私も何かしたいと強く思いました。
それは「沖縄のため」だけでなく、権利を求めて、幸せを求めて立ち上がっている当事者とともに立ち上がることは、大きな目で見ると自分、そして世界を幸せにする一歩につながるとも思うからです。
 
世界に平和を発信する。
わたしも沖縄ならできるし、沖縄だからしてほしいと思っています。
それは沖縄が地上戦で犠牲になった土地だから、という理由だけはありません。
沖縄の人たちは世界中の人に愛される朗らかな人たちで、世界も魅了する文化も持っていて、さらに戦い抜く強さがある。
そして何より、沖縄には世界中に同志がいます。
ハワイ、フィリピン、アメリカ、南米。
世界中に移民した沖縄の人たちの子孫には今も心には沖縄があります。
私の家族もそうです。
遠い南米に住んでいても、沖縄の音楽を聴き、食べ物を食べ、日本語は話せないけれど、それでも自分のおじいさん、おばあさんの故郷を自分の故郷のように大切にしています。
世界に散らばった沖縄移民の人々は、現地で生活しながら沖縄と世界をつないでくれでいるのです。
 
沖縄で起こったことは過去のことではありません。
沖縄で起こっていることも、沖縄だけでのことではありません。
沖縄で起こったこと、起こっているは今世界中で起こっていることと本質的には同じだと思えるのです。
だからきっと、沖縄を通して学び、そこで私たち一人一人の心が変わることで、一人一人からできている世界も変わるのではないか、そうであってほしい、と願うのです。
 
わたしが沖縄のために何ができるのかは、まだわかりません。
でも、伊藤塾がスタディーツアーでしているように、私も南米にいる家族や、世界の友達に、沖縄へ足を運ぶことを進めたい。
そして、ただ観光にいくだけでなく、ぜひ、沖縄の悲しい歴史も感じられる場所へ赴いて、いろいろ感じてもらいたい。
遠い異国の地が身近になることで、当事者意識を持つ人が増えることは、きっと沖縄のひいては世界の良い未来につながると信じています。
 

沖縄スタディツアー参加者の声

現地での体験こそ最高の学び

                                   
司法試験受験生 S.T

 
沖縄スタディーツアーに5回参加して、改めて感じたことがあります。それは、いかに普段から読書をし、各種ニュース報道に気を配って現実を注視していても、現場でしか得られない体験・学びがあるということ、そしてもう一つは「無知の知」、すなわちいかに自分が歴史を知っているつもりで知らないかを自覚させられることです。この気づきがあるからこそ、何度参加しても終わりはないのだということを感じさせられます。
 読谷村での小橋川さんの5時間にわたる深い深いお話は改めて深く心に刻まれました。毎年同趣旨の内容であっても、笑いのツボが同じであっても、常に最新の情勢と深い研究を踏まえた新しい内容を盛り込まれており、常に新たな学びがあります。初めて聴く人にはやや難しいところがあるかとも思いますが、繰り返し聴くことで、読谷村、沖縄、そして日本の過去、現在、未来が点から線、そして面としてつながってくることを感じます。繰り返し学習により自分の認識が螺旋状に発展していくという点では、普段の基礎マスターの勉強と本質は同じだと感じます。ただ、現地に身を置いて感じることは、現地の視点から現実を見つめ直す作業であり、普段の読書や講義聴講とは明らかに次元の異なる深い体験だと思います。
 改めて小橋川さんの並々ならぬご準備、長時間にわたる渾身のご講演に深い敬意を表します。
 2日目の首里城散策は体験型の学びとして非常に印象深く、有意義な経験でした。改めて琉球の歴史、沖縄の歴史に対して自分が浅薄な知識しか持ち合わせていないこと、知っているつもりになっていること=「無知の知」を自覚させられる大変貴重な機会となりました。ガイドさんが限られた時間の中で一つひとつ丁寧にご説明いただいたことが深く心に刻まれました。2019年10月に焼失した首里城正殿等の遺構と、それ以前の写真を目の当たりにして非常に痛ましい思いをしましたが、改めてこの出来事の意味を深く考えさせられました。体験型の学習は、講演会形式とは異なる次元の学びになることを改めて感じました。
 その他、具志堅さんの遺骨収集の生々しい体験のお話、瀬長亀次郎さんの業績を伝える不屈館での学び、南部戦跡での戦争の歴史の学びと慰霊等々、繰り返し訪れ、感じることで常に心が研ぎ澄まされていくことを改めて感じました。
 沖縄スタディーツアーならではの学び、体験はここに書き尽くせないほど豊かで、3日間にぎゅっと凝縮されています。伊藤塾長はじめ諸先生、スタッフ、そして参加者同士の交流もこのツアーならではの魅力です。この3日間の経験の質は、1年間の普段の地道な勉強に匹敵するものと感じてやみません。いや、さらにもっと自分の認識、感性の次元を高める助けになるものと感じます。ぜひさらに一人でも多くの人が本ツアーに参加してこの魅力を体感されることを願っています。

沖縄スタディツアー参加者の声

沖縄スタディツアーに参加して

                                   
行政書士受験生 suni

 
以前より沖縄ステディツアーの事は、ホームページ等を通じて気になっておりました。
昨年コロナの影響で中止になりまして、今回再開との事でしたので、これはチャンスだと思い勇気を出して、参加を申し込みました。
沖縄と言えば、常夏の楽園の様なイメージばかりでしたので、この機会でない限り知ることが出来ない事がきっとあると思い、それを知りたいとの気持ちでした。
出発前は、過去の沖縄戦の生き証人の様な方のお話を伺える場だと思っていましたが、初日のバスの移動中から行く先々に至るまで、このツアーの内容の深さにとても衝撃を受けました。
日本国内でありながらアメリカの法律が優先されること、ゴザ暴動事件、弾薬庫、毒ガス事件により子供達が原因不明の病気に掛かったこと、米軍兵士、軍属による犯罪が日常茶飯事のように行われ、それが罰されず未解決となったケースが多かった事・・・
全て初めて聞く事ばかりでした。
基地の中にあった読谷村役場、読谷村の80%が軍用地だったのに、国が何かしてくれるのを待つのでは無く、地域住民と役場の職員自らが一丸となっての座り込み、アメリカのカーター大統領に直訴など非暴力的なあらゆる方法で、長い年月を掛けて73%にそして47%までに縮小するに至るまで戦いを続けた事。
村長さんが先頭に立って戦われた事。
石碑等意味深いものが沢山ありました。
直接現在に至るまで戦っておられた小橋川清弘氏のお話はとても力強く、現在の英雄を目の当たりにした様でした。
チビチリガマが2度殺されたお話。
首里城については、2019年10月に火災が起きた時、沖縄県民みんなが涙したこと、子供たちまでが自分の少ないお小遣いから復興のため寄付をしたこと、そして建設中の首里城を拝見出来てとても興味深かったです。
それと同時に首里城に32軍指令部壕跡があり、その入口の前に立つ事が出来ました。
アメリカ軍に包囲された旧日本軍は、持久戦の指令を受けて沖縄本島南部に撤退、そして住民の犠牲が膨らんでゆき悲劇が始まる。
首里城の展望デッキに上った時、景色の美しさに清々しさを感じると同時に海の近さに恐ろしさを感じました。
そして沖縄本島南部にある地下壕(轟壕)、ライト、手袋を装着してロープをつたいながら入って行きましたが、
当時はライト、手袋、ロープなど存在する訳もなく、出入りにさえもかなり大変な思いをした筈です。
一番奥に入ってみんなのライトを消した途端、初めて経験する真っ黒な闇、光が届かず目を開けても閉じても、目が開いているのか閉じているのかすら分からない。
自分の手も足も体も見えない・・・とても恐ろしい空間でした。
地面も岩でゴツゴツして座りようもなく、ここで軍と住民が異常な状態で過ごしていたかと思うと気が狂いそうな思いだったと思います。
 
印象深かった言葉「軍は国体を守り、国民を守らない」
 
瀬永亀次郎記念館では、亀次郎さんは弾圧を受けながらも「不屈」の精神で戦い続けた方でした。その戦いの裏には六法全書がボロボロになるまで読まれて、語学も勉強されてアメリカ人とも通訳なしで話合えたことは、しっかりとした論理の上で戦っておられたのだと知る事が出来ました。
沖縄戦遺骨収集ボランティアの具志堅隆松氏の活動は過去のものだけではなく現在も継続されていて、現在の沖縄の出来事は過去のものではなく現在の日本の問題だということに気づかされました。
ここで印象深かったのは、日本は自分たちで戦争を終わらせる事が出来なかった。
その証拠として、金属が無くても戦争を終わらせることが出来ず、焼物で手榴弾を作っていたのが遺骨収集の過程で証明されたこと。
 
そして美しい海が一望できてとても景色が良いところに安置されている平和の礎は、沖縄戦で亡くなられた全ての人々が、日本の各県ごとに刻まれていました。
強い日差しを避けるために木陰になる様、傍に木が沢山植えられていました。
沖縄と言えば美しい海と景色、おっとりした人々と言うイメージが大きいのですが、沖縄の人々の辛かった日々、悲しかった日々、それに屈せず戦いの日々、そしてとても勇敢な人々なのだと心打たれました。
沖縄の問題を知る事によって、これが一地域の問題では無く、日本そのものの問題だと思いました。
普段は、平和ボケなのか、なかなか真実は伝わって来ないので、真実を知る努力をしなければならないと思いました。
一旦は退職されたと言っておられましたバスガイドさん、尽きる事なく沖縄の本当の熱いお話を聞かせて頂きました。
参加された皆様、法律を勉強されていて、とても親しく色々お話伺えて、よい勉強になりました。
ツアー全体を支えて下さった伊藤塾のスタッフの皆様、旅行会社のスタッフの皆様に感謝しております。
資格取得のために伊藤塾のweb講座にて孤独に黙々と学習していましたが、資格取るためだけの学習ではなく、活かせる知識になる様に大切な機会を与えて頂いてとても感謝しております。

沖縄スタディツアー参加者の声

LOVE    Okinawa

行政書士 / 片方雅恵さん

 
訪れる度沖縄が深くなる。
ホテルのベランダから南国の夜風と幻想的なランタン祭りに身を委ねる。
旅情溢れる至福のひととき。
時よ、止まれ。
 
那覇空港の到着ロビーでは、美しい胡蝶欄がお出迎え。
今年も沖縄を訪問させて頂けた。
雨模様の中、ユネスコ世界遺産座喜味城址へ。
去年は、晴れていたので最古のアーチ石門を散策。
石門はとても素晴らしかったが、戦時下では、レーダー基地と化したことに悲壮感を抱いた。
今年は、記念館の見学となった。
記念館では、読谷村の生活の歴史を一気に辿る。
印象的だったのは、人間国宝の焼き物の絵柄が妙にユニークで愛らしかったこと。
案内の小橋川さんが、反戦には香り高い文化と知識が必要と強調されていたことに納得出来た。
確かに読谷村は、非暴力と交渉力と知識を超えた知恵で勝負し基地返還させ、国民主権を明らかにし個人の人権を尊重し民主主義と住民自治を実践している。
読谷村は、鳳凰の形をしており、沖縄全体を引っ張る真に平和の先駆者なのだ。
講演終了後は、琉球舞踊と沖縄料理を堪能し、ツアー仲間たちと懇親を深める。
これもまた、ツアーの醍醐味。
 
2日目は、昨年に続いて伊江島を訪問。
伊江島は、戦争全容の縮図とも言われ、戦中戦後を理解することで沖縄問題の本質が見えて来る。
住民、日本軍、米軍の三者が混在したことで戦争の悲劇が拡大した。
米軍の政策は、沖縄を押さえろ。
本土決戦の準備場とされ、何の罪もない住民が巻き添えとなり島全体が壊滅し死体の山と化したのだ。
 
去年は、雨模様のため城山の入り口までで、一歩足を踏み込んだ時、木々に精霊が宿る聖なる気を感じ取り稀有な山と感じ取つたが、今年は晴れて山頂まで登頂成功。
伊藤塾アタック隊、皆よく登った。
城山は、島より7000万年も古い岩盤が、新しい岩盤に潜り込み、一部が剥がれ形作られた世界で類い稀な神のおわす山で戦争の砲弾にも屈しなかた。
山頂から伊江島全体が見渡せ、現在は波光燦めくエメラルドグリーンの海に囲まれ綺麗に整備された緑多い島。
全てが焼き尽くされた死体の山から島民はどれ程の思いで復興させたことであろうか。
ツアー仲間たちもそれぞれの思いを抱いたことと想う。
そして城山の神は、全てを知っておられるのだ。
 
ニィヤティヤ洞窟は、防空壕として利用されたが、冷んやりと陰鬱な気が漂っていた。
凄惨な戦争の後遺症と人々の心の傷は癒えておらず、不発弾処理も進まず、戦後も多くの犠牲者を出した。
洞窟内を抜け出すと透明度が高すぎるほど透き通った碧い海と同化する青い空と真っ白な雲と波飛沫が綺麗なコントラストを奏で今も波音が聞こえてくる。
沖縄を想う気持ちは、純粋でありたいと願った。
 
ヌチドウタカラの家を訪問。
館長の謝花悦子さんは、昨年も大変なご病気を抱えながら命を削ってまで平和への願いをお話しされ、我々に元気を戴いたとおっしゃっておられたが、再会させて頂き昨年より本当にお元気に見えたのがまず嬉しかった。
経済優先の政策は、戦争への危険を孕む。武器、新兵器が地球環境、自然破壊を促す。
命こそ宝。力強い講演にツアー仲間たちも熱心に耳を傾けている。
先日射殺され大事な命を落とした中村哲医師と同じ思想であることにも触れ、人道主義を強く訴えられ、我々の2度の訪問に重ね重ね謝意を示された。
強く優しい大きな方との印象は、変わらない。
反戦資料館では、ガラスケース越しでなく、血痕の付いた生々しい戦争遺品が展示され、おどろおどろしい戦争の恐怖を肌で感じ、生の資料の一つ一つが戦争の真実を語っていた。
戦争史実の重みに耐えきれなくなる。
戦死者の無縁洞も安置され、思わず手を合わせた。
 
私の見た伊江島。
去年の手記より。
雨模様の天気が哀しくその中で紅いハイビスカスが色鮮やかに精一杯咲き、サトウキビ畑もざわわざわわと風に凪いでいる犠牲者鎮魂の静かな島。
生の戦争遺品に触れたとき、沖縄問題の主題を僅かながら理解し敬虔な気持ちとなる。
 
今年の思い。
平和のためには、戦争の原因を知り、考えなくてはならない。
平和学習の本当の意味を知り、平和のために人生を捧げることが尊いのだと体の芯まで響いてくる。
あまりにも大きな犠牲を忘れては神の怒りに触れる。謙虚であれ。
 
那覇の夜。
塾長の平和への願いのお話は、いつも心打たれる。
憲法学者としての見地からだけではなく、人間としての在り方を教わるのだ。
島唄民謡ライブショー。
毎年このライブで涙を流す方がおられる。沖縄人の真のソウルが響く。
万感迫る想いが募ってくる。
首里城の火災という大悲劇にもみまわれ、沖縄県民の琉球王朝からの支え、最後の砦であったはず。
それでも空を見上げ、唄い踊り乗り越えようとする姿に心揺さぶられる想いだった。
今年は、若い学生の参加が多く平和意識の高い志を頼もしく、そして若者らしく弾ける姿をとても嬉しく感じた。
帰り道は、ライブの余韻とアメリカ統治化の名残のある異国情緒漂う国際通りを夜風に髪をなびかせホテルへ。
I LOVE Okinawa  ありがとう。沖縄。
 
最終日。
神の島   久高島へ。
太古の伝統、しきたりが連綿と生き続け儀式も伝承されそのため開発の手が入ってない日本でも珍しい島。古代そのもの。
先ずは猫がお出迎え。猫は神である。
琉球開祖アマミキヨが降臨し、最初に造った島。
神話伝説を下に確かに自然の中に神が宿る自然神信仰の存在を肌で感じる。
理論、理屈ではない。頭で考えるのではない。
その時その場所に気がある。古代の息吹も感じる。
太陽、月、地球。その運行と自然に身を委ね、肉体は滅んでも魂が生き続けるのは本当かもと実体験。見えないものが見え、聞こえないのが聞こえるのだ。
自然と一体となる。
聖域の神の島は確かに存在した。
 
南城市に入り、世界遺産 斎場御嶽へ。
琉球王国最高の聖地。神秘的な聖域に邪気が払われ心洗われる。
沖縄はやはり不思議に魅了される特別の島である。
 
終わりに。
昨年は、ひめゆりの塔を訪れ、平和祈念資料館では、敢えて残酷な映像を注視した。今までは避けて通っていたのだが。
真実を知らなくては。後世に伝える平和伝道者としての責務と考えた。
戦争体験者の想像を絶する悲惨なお話も伺った。
学徒隊は、まだまだ将来のある有望な若者。
お母さんは、国のためとはいえ、どれ程の想いだったことだろう。
戦争に出すために産んだのではない。
 
平和祈念公園の平和の礎見学の際、暴風雨で大荒れとなり、その中でガイドさんが必死に説明して下さる。
周りは伊藤塾関係者以外誰もいなくなり皆、真剣に耳を傾け聞き入った。
平和の礎には、犠牲者全ての名前が刻まれている。
あの大荒れの風雨の轟音は、犠牲者の雄叫びだったであろう。
もう二度と戦争をするな。 と。
地獄より地獄だと。
 
憲法9条改憲の動きには強い危機感を抱いている。
解釈上戦争容認となってしまう可能性を孕むのだ。
私のツアー参加のきっかけだった。
沖縄は、戦後も本土の犠牲となり治外法権からも苦難の歴史の連続。
基地問題の解決策もなく戦後処理は終わってない。
まだ、戦争は終わってないのだ。
沖縄の地であまりにも重い多くの沖縄問題を受け止め、平和活動へこれからの行政官として責任を果たすべき使命を誓うことをこのツアーを通して学んだ。
今、日本は一大転換期を迎え、舵取りを誤ると大変危険な状況に陥る。
法の力で戦争を回避し、唯一被爆国である故戦争放棄、平和を訴える権利を有す。
No More Nagasaki  No More Hiroshima  No More Okinawaである。
自衛隊も船舶もヘリも救援に動くことが、本望であるはず。
戦争の手助けをすることではない。
戦争は、地球を全てを破壊するのだ。
未来永劫これからの人々のため、美しい地球を守るため私は平和伝道者として人生を捧ぐ。
 

沖縄スタディツアー参加者の声

スタディツアーに参加して

                                        H.Yさん

 
今年は伊江島、久高島と船での移動が多く、朝早いのが大変でしたが、行ってよかったと思えるツアーでした。
伊江島のたっちゅう(城山)からは島全体が見渡せます。昨年は天候が悪く上まで登ることはできませんでしたのでお話を聞いても実感がわいていなかったことが、今年はしっかり想像できました。それは、戦争の際、島全体が一枚の燃える板のようになった、というお話です。たっちゅうに上る前、海岸に面したガマに入りました。水平線からずっと奥まで続いている、とても大きな洞窟です。そこから外の方を眺めると、今はとてもきれいな海が広がっていますが、アメリカ軍が上陸する前には海岸線にはアメリカの軍艦が並んでいたということです。目の前から迫ってくる敵の存在。どんな気持ちで隠れていたのかと想像しようとしてもしきれません。そして彼らが上陸したら今度は天井が焼けつくされた、というわけです。いくら海に近くて天井から地表まである程度の深さがあるといっても、頭上が一面火の海になれば熱くないわけがありません。自分たちの生活していた場がどうなっているか見に行くこともできず、次の瞬間命さえどうなるかわからない状況に置かれるということの恐怖を少し想像することができた時間でした。
久高島では今でも残っている地割制度の跡などを見ることができました。小さな島ですからもちろん米軍基地も自衛隊の基地もありません。遠浅の海はとてもきれいで、訪れた日には男性の儀式があるということで港の周りに人が集まっていました。沖縄独自の信仰の中心地である久高島ならではの風景だったのかもしれません。今では本島に働きに行ってしまう人も増えてきたけれど、年間を通して行われる儀式など、従来の生活をできるだけ続けているのだというお話を聞き、真水や耕作に使える土地など、必ずしも潤沢ではない資源をお互い顔の見える関係の中で分け合って生活するためにいろいろな知恵を絞ってきたことが伝わってきました。
こんな考え方を維持できる環境、のどかといえばのどかですが、限られた資源をどうみんなで分けるのかということに工夫を凝らす人たちがいる場所が今でも存在しているのが沖縄です。このような気持ちを持っている人たちが住む土地を、外国に無条件で差し出し、力づくで世界規模の戦争の最前線にしてしまう現在の日本政府の想像力のなさ、無神経さを感じました。
また、実際にアメリカ軍の関係者による犯罪の被害者になるところだった、というお話を地元の方からうかがうことができました。まだお子さんが生まれてすぐの頃、夫婦げんかをして家を飛び出し、赤ちゃんを抱っこして歩いていたら米軍の車がすっと寄ってきて止まったそうです。あわやというところで、追いかけてきたお連れ合いが「彼女は私の妻だ」というような大声を出してくれて難を逃れたとおっしゃっていました。もし彼女に何かあったら、お連れ合いはきっと些細なことだっただろう夫婦げんかを一生後悔することになったかもしれません。そんなことがすぐそこにある日常はどう考えても異常です。
私自身、このスタディツアーへの参加は数回目になります。毎年同じようなお話をうかがいますが、そのたびに新しいことが印象に残ったり、一年たって忘れていたことがあることに気づいたりと、単なる繰り返し以上のものがあると感じています。沖縄のこと、基地のことなどは、日常生活では話題にしにくい雰囲気もありますので、同じ関心を持った仲間たちと、その場でいろいろな考えを述べあい、議論できることにもとても大きな意義がある貴重な時間だと思います。その一方で、年に一度、三日間滞在するだけで何がわかるのだろう、という気持ちも大きくなってきています。スタディツアーに参加するようになってから、今までよりもさらに沖縄への関心は高まりましたし、日ごろから沖縄の地方紙にも目を通すようになりました。その意味では、全く関心を持たないよりは幾分ましかもしれませんが、ツアーを終えて自宅に戻り、友人たちに「今年のツアー報告」をするたび、これでいいのかな、という問いが心をよぎります。自分なりの結論がいつか出るのか出ないのか、いずれにしてもしばらくはこのスタディツアーを頼りに、沖縄を知ることを続けていきたいと思います。

沖縄スタディツアー

合格のために。合格後のために。

2025年沖縄スタディツアー

2026年沖縄スタディツアー

実施日程:12月12日(土)~12月14日(月)

ツアー詳細はこちら

近世以降日本からの強い政治的影響力を受けつつも、大陸と日本列島の中間に位置する琉球国は、古くから独自の文化を維持し、明治以降の近代日本において地域的な特殊性を有してきたといえます。そしていうまでもなく、現代史において沖縄は、地上戦、米軍による占領統治、さらに返還と「やまと」とは全く異質の歴史と運命をたどり、現在ではアジア太平洋地域において地政学上きわめて重要な地域となっています。
このように、沖縄は、歴史について、さらに普段見過ごしてしまう憲法や人権、そして平和の意義について深く考え直す格好のきっかけを与える地域であるといえます。伊藤塾では、主として司法試験の合格者を対象に、合格発表直後に沖縄視察旅行を実施してきました。現在では、法科大学院入試に向け、パーソナル・ステートメントの題材を考えるために参加される方や司法書士・行政書士を目指す皆さんも多く参加され、合格後を強くイメージできる旅行として評価されています。

なぜ沖縄へ行くのか

 
皆さんは沖縄と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。
県民の四人に一人が犠牲になったという太平洋戦争の激戦地、戦後のアメリカによる占領、返還、沖縄本島の20パーセントを占める広大な米軍基地、米兵による凶悪犯罪、などなど。
沖縄は琉球王国の時代から政治的に難しい立場を生きてきました。そして現在もなお政治的に翻弄されているといえます。憲法9条の安全保障問題、基地のための用地接収という財産権の問題、代理署名をめぐる中央と地方の問題、基地問題が争点となった首長選といった民主主義の問題。このように、沖縄には現代日本が直面している憲法問題が凝縮されています。沖縄に行って、実際に自分の目で基地を見たり、地元の皆さんと交流して話を聞くことは、これから法律家になろうとする皆さんにとって必ずや糧となることでしょう。

他方、沖縄には、琉球王国以来の豊かな文化があります。
華麗な琉球舞踊、独特の旋律の琉球民謡、紅型・琉球藍染などの美しい染色技術、沖縄にしかない多くの料理。沖縄出身のミュージシャンもめざましく活躍しています。
そして、沖縄の青い海、青い空。
沖縄の顔は一つだけではありません。
 

沖縄で何を学ぶか

 

このように伊藤塾の沖縄視察旅行は、単なる観光旅行とはひと味違います。「読谷村史」の編集に携わった経歴を持つ平和ガイドの話を聴いたり、ハンセン病による差別を実際に経験してきた方のお話を聴いたり、普通では体験できないことを企画しています。沖縄の地で、同じ受験仲間や伊藤塾長、伊藤塾講師と語り合い、沖縄の歴史や基地の現状を見ることは、人権や平和の意義、憲法や民主主義についての考えを一層深めてくれることでしょう。

 

体感しました!現地で学ぶ意義!2025年沖縄スタディツアー参加者の声

※プロフィールは2025年参加時のものです

司法書士受験生 うちなーぐちさん

ツアーを心待ちにしながら、司法書士試験ステディコースの憲法まで受講を進めたうえで参加しました。これまで講義や業務の場以外で、伊藤塾の弁護士である講師の方々やスタッフの皆さま、さらには試験合格者や法律家を志す仲間たちと、会話できる機会を願っていました。

司法試験受験生 Y.E.さん

今回が初めての参加でした。また、1人での参加ということで、参加を決めるにも勇気が要りました。しかし、ツアーを終える頃には、まだまだこれから、あと2日くらいは旅をしたい、もっと知りたい、と、ツアーによってエネルギーが充電され、エンジンがかかってくるくらい濃密で貴重な時間でした。

R.M.さん

今回知ったこと、経験させてもらったことを、きちんとより多くの人に語り継ぐこと、そしてその経験をもとに、人が当たり前に持つ権利について考え続け、正しく世界があり続けるための努力を怠らないことを、心に決めました。

司法書士受験生 M.K.さん

充実した3日間のスケジュールの中で訪れた場所はそれぞれどこも印象深く、感じること、考えさせられることは数多くありましたが、その中でも特に印象に残った訪問先3か所について記載させていただきます。

M.T.さん

2泊3日という短い時間の中に、ひとつひとつ、それぞれに重みのある事柄が、ぎゅっぎゅっと詰まった旅だったと感じています。
…特に印象的だったのは、読谷村の平和ガイドの小橋川清弘さんのお話です。

M.K.さん

沖縄スタディツアーと聞いて、ほとんどが戦争および米軍基地関連の施設巡りかと思っていたのですが、ハンセン病の施設、琉球の名所等も含まれており、多角的に考えさせられた3日間でした。
色々な方々の話を聞き、資料館を見学し、私が強く思ったことは「この人たちは納得をしていたのだろうか?」と言うことです。

<特集> 元沖縄県知事 故 大田昌秀先生を偲んで

沖縄スタディツアーで大変お世話になった大田昌秀先生が、2017年6月12日、ご逝去されました。 ご生前のご厚情に深く感謝し、先生のご遺徳を偲びつつ、先生のご功績の一部を紹介させていただきます。

元沖縄県知事
故 大田昌秀先生を偲んで

沖縄スタディツアーで大変お世話になった大田昌秀先生が、2017年6月12日、ご逝去されました。
ご生前のご厚情に深く感謝し、先生のご遺徳を偲びつつ、先生のご功績の一部を紹介させていただきます。
 

 

故 大田 昌秀先生のご活躍の経歴

1925年

6月12日 沖縄県久米島具志川村(現久米島町)に生まれる。
仕事をする母を支えつつも、学業成績は非常に優秀であったが、進学する学費がなかったため、母校の用務員を勤めた。

1941年

沖縄師範学校に入学。

1945年

鉄血勤皇隊「千早隊」の一員として動員される。
沖縄師範学校在学中、鉄血勤皇隊の一員として沖縄守備軍・第32軍に動員され、情報宣伝部隊「千早隊」に所属する。
1945年10月に捕虜となって生還。

1946年

沖縄文教学校卒業。

1948年

沖縄外国語学校卒業。

1954年

早稲田大学教育学部卒業。
日本・アメリカの留学試験に合格し、まず日本への留学を選択し、早稲田大学で英語を学ぶ。

1956年

アメリカのシラキュース大学大学院修了。
その後アメリカへ留学し、ジャーナリズムを学ぶ。

1958年

琉球大学講師(文理学部社会学科)となる。

1968年

琉球大学社会学科教授となる。
その間、東京大学新聞研究所等でも研究をする。

1990年

沖縄知事選出馬、当選。以後、2期8年間務める。
琉球大学教授の職を辞し、沖縄県知事選に出馬。
革新統一候補として、現職の保守系西銘順治氏を破り、当選する。在職中には次に代表される数々の出来事にかかわった。

1994年

「平和の礎」(平和祈念公園内に設置されている慰霊碑。世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑)の工事が起工。
太平洋戦争・沖縄戦終結50周年に当たる1995年に完成、除幕。

1995年

アメリカ海兵隊員等による少女暴行事件に抗議する県民総決起大会に参加し、日米地位協定の改定を訴える。
同年、政府により沖縄代理署名訴訟を起こされた。
地主が米軍基地として使用されることを拒絶し、土地賃貸借契約を締結しない場合、駐留軍用地特別措置法に基づき、知事の代理署名等を要件としてその土地を強制的に基地として使用することができるが、大田先生は署名を拒否したため、政府は代理署名を求めて提訴した(1996年に最高裁で大田先生側の敗訴が確定)。

1998年

任期満了に伴う沖縄県知事選挙で、稲嶺惠一氏に敗れ、落選。

2001年

参議院議員通常選挙に社会民主党より立候補し、当選。
一期を務め、政界を引退。

2013年

特定非営利活動法人 沖縄国際平和研究所を設立。
沖縄国際平和研究所は、
(1) 国内外の戦争と平和について学術的分野から多角的に研究を進めるとともに、さる沖縄戦で県民が経験した真実とその要因を徹底的に解明すること
(2)沖縄の伝統的平和思想の由来を探り、県民が誇りにする平和希求の強さを踏まえ、国際平和の創出に寄与できる体制を培うこと
(3) 沖縄にとっての諸悪の根源をなす基地問題の解決を図り、「基地の島」を「平和のメッカ」に変える活動を先導すること
(4)「積極的平和」の醸成に努め、平和教育の推進と「基地経済」からの脱却、自立経済の確立に努めること
(5)反戦平和志向の人材育成と国際的ネットワークづくりを展開すること
を目指し、活動してきました。
伊藤塾で開催される「沖縄スタディツアー」でも訪問地の1つとして何度も訪れており、ツアー参加者は多くのことをここから学んでいる。

2017年

6月12日92歳の誕生日にご逝去。
7月26日、県民葬が営まれる。約2,000人が参列。
7月29日、故郷久米島で町民葬が営まれる。

沖縄国際平和研究所

2017/9/30で閉館となった沖縄国際平和研究所

大田先生と伊藤真塾長

大田先生と伊藤真塾長

大田先生が深く関わられた慰霊碑

太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して
戦没者全員の氏名を刻んだ記念碑

平和祈念公園
平和の礎

沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられた全ての人々の氏名を刻んだ記念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設した。
刻銘碑は、平和の広場を中心にして放射状に円弧の形で広がりをもつ5つ折タイプ69基、3つ折タイプ49基の合わせて118基、刻銘版は、1,220面に及び、約25万名の刻銘が可能。戦没者の追悼と平和祈念・戦争体験の教訓の継承・安らぎと学びの場の3つを基本理念としている。
メイン園路は、その中心線が6月23日の「慰霊の日」における日の出の方位に合わせて設定されている。
平和の広場は、断崖絶壁から海岸線、波打ち際を眺望できる位置に設置されています。
平和の広場の中央には「平和の火」が灯されている。この「平和の火」は、沖縄戦最初の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」及び長崎市の「誓いの火」から分けていただいた火を合火し、1991年から灯しつづけた火を、1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し、灯したものである。

(紹介文: 糸満市ホームページより)

平和の火

平和の広場の中心。
沖縄を中心とした世界地図でデザインされています。

メイン園路

園路は平和の火(平和の広場)を中心に放射状に広がっていますが、メインの園路が慰霊の日(6/23)の日の出の方角に設計されています。

検索コーナー

24万余りの刻銘がどのブロックに刻まれているかを検索できます。

刻銘碑

打ち寄せる波をイメージしたデザイン。
毎年、慰霊の日に追加・修正されています。
沖縄師範学校男子部の生徒たちを祀る 慰霊の塔

沖縄師範健児之塔

教員養成機関であった沖縄師範学校男子部から動員され、教師19名と学徒226名を含む同窓生290名を祀る。1950年建立。米軍が沖縄本島に上陸する前日の1945年3月31日に全職員生徒へ防衛召集。386名の学徒は陸軍2等兵の身分を与えられ25名の教職員と共に動員された。
学徒は負傷兵の治療の補助、陣地構成、炊事、立哨、情報収集や伝達などの任務を担った。それぞれの隊では摩文仁撤退後も弾雨の中、伝令や水汲みなど危険な任務を行っていたが、残存兵と共に斬り込みを命じられた学徒もいた。
また、「敵中を突破して北部へ行き再起を図れ」との解散命令により、数名単位に分かれて壕から脱出を試みた学徒も米軍の掃討戦により多くが犠牲となった。
「沖縄師範健児之塔」の後方には、1946年3月に金城和信氏により建立された「健児の塔」や沖縄師範学校の生存者や関係者により、友情・師弟愛・永遠の平和を3名の学徒により表した「平和の像」が並列して設置されている。

(紹介文: 糸満市ホームページより)

情報宣伝隊は、大田先生が所属された部隊。
通称「千早隊」

敷地内には、多くの歌碑が建立されています。

平和の像

大田先生らが制作建立された像。
右側が「友情」、中央が「師弟愛」、左側が「永遠の平和」を表している。

健児之塔

1946年建立。一番初めの健児之塔。

このほかにも、沖縄県内にはさまざまな慰霊碑が立てられています。「2017年沖縄スタディツアー LinkIcon 」では、 「平和の礎」「沖縄師範健児之塔」「白梅の塔」「ひめゆりの塔」を訪問しました。

大田先生の書斎・愛書・資料など

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2017年9月30日に閉館になった沖縄国際平和研究所

命どぅ宝 <沖縄戦が多くの犠牲を払って得た教訓>

私は沖縄県知事時代、平和行政の三本柱として、
(1)平和祈念資料館の移設と展示内容の充実
(2)敵味方の別なく、軍人・非軍人を問わず沖縄戦で戦死したすべての名前を刻印して永久に残す「平和の礎(いしじ)」の建立
(3)沖縄国際平和研究所の創設
を目標に揚げました。
幸い県議会と県民のご支持を得て前二者の目標は実現できましたが、(3)の目標は時間切れで実現できませんでした。
そのため県から身を退いて後、個人的平和研究所を設立、沖縄戦と基地問題のほか平和問題などの研究に取り組んできました。しかし、個人的研究所では時代の要請にこたえることができないだけでなく、沖縄が直面している解決困難な問題にも適切に対応できないことを痛感するようになりました。
そのため、今年2013年の新年を契機に決意も新たに個人的研究所を念願の沖縄国際平和研究所に衣替えすることにしました。が、何分新芽を出したばかりなので、江湖の皆様お一人ひとりの物心両面からのご支援を賜り立派に育て上げることを切願する次第です。

(沖縄国際研究所ホームページ「ごあいさつ」より)
 
 

※ここから下のコーナーの写真は、画像をクリックすると大きい画像で見られます。

沖縄戦が始まるおよそ半年前のこの日、沖縄は県都那覇を中心に各地が米艦戦機による猛烈な空襲を受けた。那覇市の被害は特に大きく、市街地の90%が焼き払われ、軍民1,6000人が死傷し、県民1か月分の食糧、大量の武器・弾薬を失ってしまった。この攻撃は10・10(じゅうじゅう)空襲と呼ばれている。

10・10空襲により廃墟と化した、那覇市街地の様子。空襲中の写真(左)と比べると、破壊の凄さがわかる(1945年)


生命を助けるビラ。6月12日から21日の間に米軍が沖縄の前線地域にくまなく撒いた降伏を勧告するビラ。何百枚も撒かれたという。

太平洋戦争下、米軍が撒いたさまざまな宣伝ビラ

宣伝ビラのコーナーの一角

太平洋戦争下、日本軍が作成した米軍兵士向けの宣伝ビラ

太平洋戦争下、日本軍が作成した米軍兵士向けの宣伝ビラ


左上:日本軍の攻撃を受け、黒煙に包まれる米軍基地。(米国ハワイ ヒッカム飛行場 1941年12月8日)
左下:日本軍の攻撃で破壊、炎上する米航空機。(米国ハワイ ヒッカム飛行場 1941年12月8日)
右上:日本軍関係者が収容された、県内最大の収容所。(金武町屋嘉 屋嘉捕虜収容所 1945年6月27日)
右下:米軍に占領された部落。米軍のテントが立ち並ぶ。(座間味島座間味 1945年)

日本軍による空からの攻撃に備える米軍の機関砲。湾内の海上基地には多くの艦船が停泊している。(外地島(ふかじしま)1945年6月24日)

読谷村の海岸を埋め尽くす米軍艦船

「訊問條項」。収容所に入る日本兵の訊問後に通訳が記入したり、捕虜本人が記入した。なお「捕虜になることは恥」とされていた当時、自分はおろか、郷里の家族に非国民のレッテルが貼られることを恐れ、名前を含め、本当のことを話さない、書かない捕虜が多かったという。