2026.02.01

第367回 法の支配

年始の雑感で「2026年の世界も日本社会も決して平穏なものにはならないでしょう」と書きました。ですが、まさか年明け早々に、米国が軍事力を用いてベネズエラ大統領を拘束する事態が起きるとは思ってもいませんでした。

 

報道によれば、米国は数か月前から反米左派のマドゥロ大統領排除を最終目標に準備を進め、CIAなどが所在、警護体制、移動経路まで把握していたといいます。天候等の条件が整うまで延期された末、2026年1月2日夜、開始命令が発令され、3日未明に作戦が実行されました。サイバー攻撃でカラカスを停電させ、電子戦で防空網・センサーを無力化し、精密誘導兵器で指揮系統を麻痺させ、軍事インフラを破壊した上で、特殊部隊デルタフォースが大統領公邸を急襲して拘束し、ニューヨークに連行しました――。所要約2時間半、米軍死傷者ゼロ。軍隊と情報機関が“システム”として統合運用された結果だ、という評価も出ています。作戦名(Operation Absolute Resolve)どおり、圧倒的な軍事力を誇示したということでしょう。

 

しかし、ここで私たちが立ち止まって考えるべきことは、「作戦が巧妙だったか」「圧倒的だったか」ではありません。問うべきは、「法は、どこにあったのか」です。

 

ベネズエラという独立主権国家の主権を無視し、民間人を含め約100人が死亡したともいわれています。これが事実であるなら、当然、その武力行使を正当化する根拠が求められます。ところが、トランプ大統領の説明は「大規模な麻薬犯罪組織の首謀者を逮捕するための作戦」。これで納得できるでしょうか。

 

国連憲章2条4項は、「国際関係における武力による威嚇又は武力の行使」を禁じています。今回、米軍がベネズエラ領域内で軍事行動を実施し、現職国家元首を拘束し国外へ移送している以上、これは明確に「武力行使」に当たります。武力行使が例外的に許されるのは、安保理決議(42条)か、個別的・集団的自衛権(51条)かですが、いずれの例外にも当たりません。国連憲章違反であることは明らかです。

 

さらに国連憲章2条7項は、不干渉原則を定めています。国家元首の拘束は、統治機構の中枢に対する介入であり、外国が政権交代を直接的に誘発させるという意味で、深刻な侵害と評価し得ます。統治権(警察など行政権を含む)としての主権は国外に及ばないのですから、「法執行機関による法執行だ」という説明も説得力を欠きます。

 

そして決定的なのは、トランプ大統領が「私に国際法は必要ない」(I don’t need international law.)と述べたという点です。ここには、統治者に必要な法に対する敬意がありません。法の支配を成り立たせる最低限の“態度”がないのです。

 

ロシアのウクライナ侵攻も国連憲章2条4項違反です。ただ、ロシアは少なくとも、親露派支配地域を「独立国家」として承認し、その要請に基づいて集団的自衛権(51条)を行使した、という「形」を取りました。もちろん、その「形」が国際法上正当化されるかは別問題です。ですが、トランプ大統領は「国際法など関係ない」と開き直ったのです。作戦の巧拙や被害規模以前に、法の支配を尊重しようとしない姿勢そのものが問題です。

 

「法の支配」とは、「人による支配」「力による支配」を否定し、「法という理性」によって権力を統制することで、自由で公正な社会を実現しようとする基本原理です。これは“きれいごと”ではありません。権力を権力のまま放置しないための、人類が長い歴史の中で獲得してきた英知です。これを否定することは、法そのものへの挑戦でもあります。

 

もちろん、マドゥロ氏の圧政に苦しんできたベネズエラ国民の中には、今回の拘束を歓迎する人もいるでしょう。ですが、日米両政府は「法の支配」を共通の価値として繰り返し確認し、日本政府は「力による現状変更は許されない」と繰り返し訴えてきました。ここで沈黙してしまえば、結局、「結果さえよければ何をしてもいい」という世界観を承認することになります。法律家にとって、手続的正義は“飾り”ではありません。むしろ使命です。だからこそ、私たちは「結果オーライ」として簡単に容認することはできないのです。

 

今回、もう一つ突きつけられたのは、軍事力の民主的統制の難しさです。米国では、戦争権限を議会(連邦憲法1条8節)と大統領(同2条2節)に分配し、戦争権限法もあります。しかし、それでも大統領の軍事力行使に実効的な歯止めがかからない。つまり、いったん軍隊を持てば、それを民主的にコントロールすることは極めて困難だという現実です。

 

この点、日本国憲法は、戦前に軍事力統制に失敗した苦い経験から、そもそも軍事力に憲法上の正当性を与えない、という統制の仕組みを採りました。軍隊を持たず戦争しないことを原則とし、例外として個別的自衛権行使のみを許す。その結果、原則・例外が明確になり、武力行使は例外として厳格に解釈するという姿勢が、専守防衛政策の基本ルールになっていました。これを2014年7月1日の閣議決定まで、60年にわたり憲法実践として維持してきたのです。

 

しかし7.1閣議決定により、集団的自衛権行使を容認する解釈へと変更され、存立危機事態における集団的自衛権行使を認める安保法制が強行採決され、日米の軍事一体化が進み、今日に至っています。

 

正月早々の米国によるベネズエラ攻撃に驚いていたところへ、日本国内では高市首相による突然の衆議院解散、さらに立憲民主党と公明党が中道改革連合(以下「中道」)という新党を結成するというニュースが飛び込んできました。まさに想定外です。もっとも、想定外なのは私が政治に疎かっただけで、昨年来、両党は「中道」という点でのすり合わせを続けていたようです。

 

問題はここからです。立憲民主党はこれまで安保法制の違憲性を訴えてきましたが、新党ではこれを合憲としました。「立憲」を掲げる政党がなくなるだけでも残念ですが、安保法制を合憲とする――正直、これは重い転換です。ただ、高市政権の軍拡路線、国家優先の政治にブレーキをかけ、市民生活を重視する政治を実現するための現実的選択だった、という見方もできます。

 

正確には、「平和安全法制が定める存立危機事態における自国防衛のための自衛権行使は合憲」という整理のようです。あえて集団的自衛権には言及せず曖昧にしています。存立危機事態における集団的自衛権行使は、事実上個別的自衛権行使の場面と重なる、という理解に立っているのでしょう。存立危機事態とは、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」です。これに該当するなら武力攻撃事態等(武力攻撃事態対処法2条)に当たるのだから合憲だ――そういう主張だと推測します。

 

しかし、武力攻撃事態等とは武力攻撃事態と武力攻撃予測事態を合わせた概念であり、そこには「予測される事態」も含まれます。その段階で日本が武力行使するとなれば、それは個別的自衛権では説明できません。個別的自衛権が許されるのは、日本が武力攻撃を受けたか、または武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った場合に限られます(自衛隊法76条1項1号)。単に「予測される」だけでは足りません。

 

存立危機事態の本質は、日本が武力攻撃を受けていなくても武力行使できる点にあります。だからこそ当初から違憲と指摘されてきました。7.1閣議決定で、武力行使を「日本が攻撃を受けた場合に限る」という限定を外してしまった以上、違憲と言わざるを得ません。しかも、その認定は時の政府の判断に委ねられている。昨年11月7日の高市首相の「どう考えても存立危機事態になり得る」という発言のように、非常に曖昧で、憲法的統制が効かない仕組みになってしまっている点でも、やはり違憲と言わざるを得ません。

 

安保法制以前は、「原則として武力行使は許されない」「例外として、日本が武力攻撃を受けたときのみ個別的自衛権として武力を行使できる」という原則・例外が明確でした。ところが日本が攻撃を受けていなくても武力行使を認めたことで、この構造が事実上、逆転してしまいました。結果、日米の軍事的一体化が進み、軍需産業の育成や武器輸出の解禁など「戦争する国としての準備」が、憲法的統制への意識を伴わずに進みやすくなったのです。

 

もちろん、抑止力を高めて戦争を防ぐ、という理屈は理解できます。ですが抑止力とは、戦争する意思と能力を相手に示して威嚇することです。戦争する準備によって戦争を防ごうとする政策である以上、憲法前文と9条が想定する「平和」のあり方と緊張関係に立つことは否定できないのではないでしょうか。

 

政治の世界では、中道のように、いったん合憲と整理した上で適用を厳格に制限し、違憲的適用を防ぐ、という苦肉の策もあるのでしょう。ですが、法律家としては、違憲の既成事実が積み重なっても違憲性が消えるわけではない、と言わざるを得ません。「自国防衛のため」に限るという弁明も、今日の戦争がほぼすべて「自国防衛のため」と称して行われる現実を見れば、十分な歯止めにはなりません。

 

「いつまで安保法制が違憲などと言っているんだ。もっと現実を見ろ」と言われてしまうかもしれません。ですが、自衛隊について政府が合憲としていたとしても、多くの憲法学者が違憲だと主張し続けることによって、政府に緊張感を与え、運用を抑制するという効果が生まれてきたのも事実です。同じように、存立危機事態の認定が安易になされないよう、法律家が違憲だと主張し続けることにも、十分な意味があると考えています。

 

そして何より、世界でも日本でも、権力を法で拘束する「法の支配」は、すべての為政者が常に意識しなければならない基本ルールです。法を学び、将来、法を実践する者として、いま改めて「法の支配」を深く考えるときだと思います。

 

法は、ときに驚くほど脆く、簡単に後景へ退かされてしまいます。だからこそ、守る側が手を離してはいけません。問い続けること、訴え続けること、学び続けること、その積み重ねが、社会を支えます。法の支配は、いつも私たちの側から始まるのだと思っています。