第373回 「悪法も法である」のか

多くの法学者や法律実務家がその違憲性を指摘してきた国旗損壊罪が、7月17日、国会で成立してしまいました。その違憲性について、ここでは詳しく論じませんが、表現の自由(憲法21条)、思想・良心の自由(憲法19条)、罪刑法定主義(憲法31条)に違反し、立法事実を欠くにもかかわらず刑罰法規を設けることは、刑法の謙抑性にも反していると言わざるを得ません(「伊藤真の元気が出る憲法アップデート」第310弾、第340弾)。
日弁連をはじめ、全国の弁護士会は、その違憲性を理由に法案の成立に反対しました。国会においても、衆議院、参議院の双方で、憲法学者がこぞってその違憲性を指摘しました。必要性を認める意見を述べた学者は、保守改憲派として著名な憲法学者と商法学者だけでした。
神戸大学の木下昌彦教授は、「本法案には二つの運命しかない。最高裁において違憲無効とされる運命か、さもなければ我が国の自由な言論の喪失の端緒になったと後世の歴史家によって記述される運命である」と厳しく批判しました。また、中央大学の橋本基弘教授は、国会でその違憲性を指摘したのみならず、成立後、朝日新聞の取材に応じて、「表現の自由は、その国が民主的な国家であるか、自由な国家であるかを測るバロメーターだ。……戦後、政府を批判しても処罰されなかった時代が続いてきた。政府批判のために日の丸を焼いたら処罰される可能性のある法律ができたことを重く受け止める必要がある。戦後という時代の、一種のお葬式のように感じた」と語っています。
さて、このように専門家から強く違憲性を指摘されながら、内閣法制局の事前審査も経ずに議員立法として成立してしまった国旗損壊罪ですが、それでも国会で成立した以上、少なくとも国会の多数は合憲と判断したことになります。いくら私たちが違憲の悪法だと非難しても、国会が成立させた以上、警察は国旗損壊の嫌疑を認知した場合には、この法律を適用して犯罪として捜査し、検察は起訴することが想定されます。そこでは、「悪法も法である」として、この法律が適用されることになりそうです。
まず、「悪法も法である」という考えがどのように機能するのかを考える前提として、立憲主義のあり方としての「法治主義」と「法の支配」をおさらいしておきましょう。戦前のドイツや日本における「法」は、内容とは関係のない、その中に何でも入れることができる容器のような、形式的な法律にすぎませんでした。議会によって制定された法律であれば、その内容の合理性は問題とされなかったのです。この時代は、まさに「悪法も法である」とされた時代であったといえます。
それに対して、日本国憲法の下における「法」は、内容が合理的でなければならないという実質的要件を含む観念であり、ひいては人権の観念とも結びつくものとなりました。日本国憲法が採用する「法の支配」の観念の下では、「悪法も法である」という考えは否定されることになります。
ただし、そのためには重要な前提があります。それは、その法の正しさ、すなわち悪法か否かを、誰がどのように判断するのかということです。戦前は裁判所に違憲審査権がありませんでしたから、議会が法の正しさを判断するしかありませんでした。男性のみの普通選挙だったとはいえ、一応民主的正統性を有する議会が作った法律であれば正しいはずであり、行政も司法も、もちろん国民も、それに従うしかなかったのです。
しかし、戦後は、憲法98条1項によって、憲法に違反する法律は無効とされます。しかも、その合憲性について公権的に判断する権限を裁判所に与えたのです(違憲審査権・81条)。仮にこの81条がなかったとしても、裁判所には違憲審査権が認められると解釈されています。裁判官は、公務員として99条によって憲法尊重擁護義務を負い、76条3項によって憲法に従って裁判をすることが義務づけられているからです(最高裁昭和23年7月7日大法廷判決)。
この違憲審査権は下級裁判所にも認められますから、下級審の裁判官も違憲審査権を行使し、国旗損壊罪違反として起訴された事件について、国旗損壊罪は違憲無効であるとして無罪判決を言い渡すことができます。裁判官には、「悪法も法である」という論理は通じないのです。
他方で、国会が制定した法律に違憲の疑いがあったとしても、最高裁が違憲と判断するまでは、その法律は原則として合憲なものとして扱われ、この法律を執行する内閣には誠実執行義務が生じます。憲法73条1号が規定する、内閣の法律誠実執行義務です。これは内閣の義務として規定されていますが、当然に、行政権を担うすべての機関の義務でもあるといえます。したがって、警察が国旗損壊罪違反を認知した場合にこれを捜査し、検察官が嫌疑を認めた場合に起訴することは、法律誠実執行義務の履行として当然であるともいえます。
ただし、そこには、行政権の担い手として一定の裁量があるはずです。つまり、警察、検察は、それぞれの判断に基づき、捜査、起訴をするか否かを、それぞれの責任において判断することができるはずなのです。特に検察官には訴追裁量がありますから、犯罪の嫌疑がある場合であっても、これを起訴猶予処分とすることができます(起訴便宜主義・刑事訴訟法248条)。法律の違憲性に疑義がある場合に、この規定を活用して起訴を控える運用をしたとしても、そのような運用が法律誠実執行義務に違反するとはいえないと考えます。検察官も公務員として憲法尊重擁護義務を負っているのですから、裁判官とは異なる行政官としての立場から一定の憲法判断を行い、人権保障に資する行動を取ることも許容されているはずです。
法律誠実執行義務という統治機構上の憲法尊重擁護義務と、人権保障に資するように行動すべきであるという人権上の憲法尊重擁護義務とが衝突した場合には、人権と統治が目的と手段の関係にあることを想起し、人権保障に資するように行動すべきだと考えます。起訴便宜主義を解釈し、実践する際に、人権保障を優先することを憲法は認めているはずです。それが法の支配の帰結だと考えます。その法律が人権侵害を伴うものである場合には、検察官であっても、「悪法も法である」として憲法の人権規定を無視することは許されないのです。
では、弁護士会が国旗損壊罪の違憲性を主張し、国会に廃止を求め、警察、検察に捜査、起訴をしないよう求めることは許されるのでしょうか。警察、検察が人権擁護の立場から、その執行を差し控えることができることは先に述べたとおりです。しかし、一般的には、国会で法律として成立した以上、内閣をはじめとする行政機関は、たとえそれが違憲であると考えたとしても、最高裁が違憲と判断するまでは、その法律を誠実に執行することが職務であると考えられています。
合憲性に疑義がある場合であっても、最高裁が公権的かつ最終的な憲法適合性の判断をするまでは、合憲なものとして扱い、法的安定性を保つという構造を、憲法は予定しています。最高裁が違憲と判断した場合であっても、個別的効力説の下では、その法律の執行を一般的に差し控えることは裁判所に対する礼譲にすぎないという議論もあるほどです。こうした理解には議論の余地がありますが、これが権力内部における役割分担であり、三権分立の一つのあり方であると考えられています。
これに対して、弁護士及び弁護士会は権力の側ではなく、在野の立場から、法律専門家として発言し、行動することが求められています。同じ法律家であっても、学者は何者にも拘束されず、学問的良心に従って自由な立場から発言します。検察官は行政官として、適式に成立した法律を誠実に執行する義務を負います。裁判官は、担当する事件に向き合い、良心に従って憲法判断をします。
他方弁護士は、権力内部において手続的に適法に成立し、正統性(legitimacy)を有する法律であっても、実体的には違憲であって正当性(justification)がないと主張することが許されます。そして、それを訴え続けることが、在野法曹としての職責なのだと考えます。実体的正義と手続的正義とを分けて考える必要があるということです。
弁護士は、弁護士法1条1項によって「基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命」とされ、2項によって「社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない」とされています。たとえ手続的に見て正統性のある法律であっても、違憲であり、実体的には正当性がないと主張し続け、その法律を廃止させて実体的正義を回復するために努力することが求められているのです。
そもそも、ある法律が違憲であるかどうかについての評価は相対的なものです。国会議員、行政官、裁判官、弁護士、学者、市民によって、その評価は異なります。公権的かつ最終的な判断権は最高裁にありますが、だからといって、他の立場にある者が、憲法適合性について異なる見解を主張することを禁じられているわけではありません。また、その評価は、立場によって相対的であるだけでなく、判例変更の可能性が常にある以上、時間的にも相対的なものです。
こうした異なる立場の者が議論を続け、熟議を重ねることによって、憲法は深化し、完成に近づいていくのです。それが、今年3月に亡くなったドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスの「近代は未完のプロジェクト」、「憲法愛国主義」、そして奥平先生も主張されていた「憲法は未完のプロジェクト」ということなのだと考えます(雑感371回)。
こうした熟議を継続するためにも、弁護士会が在野の立場から違憲性を主張し、国会に対しては、実体的に違憲な法律であるとしてその廃止を求め、法律の下で一定の行政裁量権を持つ警察や、起訴裁量権を持つ検察に対しては、その裁量の範囲内で執行を差し控えるよう求めることには意味がありますし、必要なことだと考えます。
私にとっては一つの夢物語ですが、法曹三者が暗黙のうちに結託し、司法部門として政治部門の横暴に対抗することができたらよいのに、と思うことがあります。例えば、スポーツ観戦の場で応援に使っていた国旗を、日本が負けてしまったために、気持ちを抑えきれず、公衆の面前でくしゃくしゃに丸めて捨てたという些細な事件を考えてみます。政治的メッセージは皆無ですが、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」による損壊には当たり得る事例です。
この事件について、弁護士が当事者の承諾を得て告発し、検察が裁判所に違憲判断をさせるために、あえて事件化して起訴します。法廷では、国会で展開された全く説得力のない立法理由を検察官としてあえて展開し、ある意味でピエロ役を演じます。弁護士はもちろん違憲性を主張して争点化し、それを受けて裁判所が違憲判断をするのです。
このような一種の茶番劇を演じ、司法部門全体としてこの法律を葬り去るという夢物語です。弁護士、検察官、裁判官という法曹三者が、暗黙のうちに司法部門として一体となり、この国の立憲主義や法の支配を守るために、それぞれの立場から行動するとよいのにと夢見るのです。
それが夢物語であるとしても、弁護士及び弁護士会が、在野法曹の立場から、成立した法律についてその違憲性を主張し続けることには根拠があり、また、必要なことだと考えています。「悪法も法である」として、これを見過ごすことは許されないのです。法を学ぶ皆さんも、様々な考えがあることを認めつつも、自ら考え、行動し、その結果について責任をとれる法律家を目指してほしいと思っています。
伊藤 真
司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
メールマガジン「伊藤塾通信」で発信しています。
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