2026.06.01

第371回 未完のプロジェクト

2026年4月28日、イギリスのチャールズ3世国王はアメリカ連邦議会で歴史的な演説を行いました。トランプ政権下のアメリカで、「力による支配」がまかり通ろうとしている中、旧約聖書を引用しながら、「くわを剣に打ち直さないよう願う」と述べ、戦争の拡大に警鐘を鳴らしました。そして、民主主義と議会政治の価値を静かに、しかし力強く訴えたのです。

 

国王がとりわけ力を込めたのは、1215年のマグナ・カルタ、大憲章への言及でした。「マグナ・カルタは1789年以降の米連邦最高裁判決で少なくとも160件引用されており、とりわけ『行政権力は抑制と均衡に服する』という原則の礎となっている」。国王がそう述べると、議場はスタンディングオベーションで応えました。さらに国王は、「ここ議会の場こそ、一人の意思によってではなく、多くの者の熟議によって、合衆国という生きたモザイクを代表する精神が宿っている」と語りました。

 

もちろん、チャールズ国王がトランプ大統領を名指しで批判することはありませんでした。しかし、「生きたモザイク」とはアメリカ社会の多様性を指す言葉です。その演説が何を意図していたのかは明らかでしょう。「法の支配、安定した規則の確実性、独立した司法による公正な紛争解決」。これらの言葉は、まさに今のアメリカで脅かされているものにほかなりません。KINGのようにふるまうトランプ大統領を批判する声や運動が広がる中で、イギリス国王が、共和国であるアメリカの議会において、行政権力への抑制と均衡を説いているのです。民主主義とは何か。立憲主義とは何か。その根本を、私たちにも問いかけているように思えます。

 

チャールズ国王が訴えたことの本質は、日本国憲法の立憲主義と完全に一致しています。憲法は、国家権力を縛るための最高規範です。国王ですら法の下に服する。権力者であっても、法を超えることはできない。このマグナ・カルタ以来の原則こそ、立憲主義の出発点です。

 

国家権力は、放置すれば必ず暴走します。だからこそ、主権者である国民が、「この範囲でしか権力を使ってはならない」と政府に命じたものが憲法です。民主主義国家においては、国民の多数意思によって国政が運営されます。しかし、多数決で決まれば何でもよいわけではありません。選挙やレファレンダムにおいて、国民は情報操作に惑わされ、ムードや雰囲気に流され、目先の利益に目を奪われることがあります。だからこそ、民主主義に基づく政治であっても、やってはいけないこと、奪ってはいけない価値を、あらかじめ明確にしておいた法が憲法です。

 

いわば、私たち国民自身も過ちを犯すからこそ、あらかじめ自分たちを縛っておく。憲法には、合理的自己拘束という意味があります。そこには、人間はどんなに優れた人であっても過ちを犯す不完全な存在なのだという、人間への謙虚なまなざしがあります。この謙虚さこそ、立憲主義の出発点です。

 

トランプ大統領がベネズエラでの軍事作戦をめぐって「私には国際法は必要ない」と発言したり、「力による支配」によって既存の法秩序を塗り替えようとしたりしている中で、日本は何を語るべきでしょうか。日本は、立憲主義を遅ればせながら継受した「法の支配」の国です。だからこそ、今あらためて、法の支配の価値を世界に訴えていく責務があるのではないでしょうか。

 

5月3日に発表されたNHKの世論調査では、国民の69%が憲法改正に関心を持ち、38%が改正は必要だと思っているにもかかわらず、憲法の内容・理念を知らないという人が60%に上っています。「なんとなく改憲は必要だと感じる。しかし、憲法の中身はよくわからない」。それが、多くの国民の正直な感覚なのかもしれません。しかし、そのような国民意識のもとで、国会の憲法審査会では改憲論議が盛んに進められています。ここに大きな危うさがあります。

 

2026年2月の衆議院総選挙で自民党が圧勝し、高市政権は政策転換を強く打ち出しました。さらに高市首相は、同年4月の自民党大会で「憲法改正」に強い意欲を示し、「時は来ました」と述べています。しかし、小選挙区で自民党候補に投票した有権者の割合、すなわち絶対得票率は、約27%にすぎません。しかも、改憲を優先課題と答えた有権者は1%程度しかいません。それにもかかわらず、「選挙で勝ったのだから改憲だ」と言えるのでしょうか。

 

さらに、衆議院では一票の格差が2倍を超えたまま放置され、参議院では投票価値が3分の1程度しかない有権者が約20%もいます。こうした選挙のもとで選ばれた国会議員に、憲法改正を発議する正統性が本当にあるのでしょうか。憲法96条は、憲法改正の発議には「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」が必要だと定めています。この要件は、数の力で押し通せるという意味ではありません。少数会派の議員も納得できるように徹底的に熟議を尽くせという趣旨を含むものです。

 

現在、衆議院憲法審査会で議論されている「緊急事態条項」は、災害時に政治空白をつくらないためという理由で、国会議員の任期延長を認めるものです。しかし、少なくとも現行憲法には参議院の緊急集会があり、公職選挙法にも繰延投票の制度があります。まず問われるべきは、これらの制度や新たな法律整備で本当に対応できない具体的な立法事実があるのか、という点です。そもそもこの条項の本質は「選挙の停止」であり主権者からの選挙権の剥奪です。国民が自らの政治的意思を示す機会そのものが奪われることになります。

 

さらに、緊急政令、緊急財政処分という、内閣への立法権の移譲や財政民主主義の放棄も検討されています。戦前の大日本帝国憲法において、その起草者である伊藤博文が緊急勅令に関して「憲法のもっとも濫用をいましむる所なり」と警鐘を鳴らしていました。それにもかかわらず、実際には濫用された苦い歴史的経験があります。

 

だからこそ、日本国憲法制定時、金森徳次郎憲法担当大臣は、緊急勅令や財政上の緊急処分は行政当局者にとって「重宝」ではあるが、その裏面では「国民の意思をある期間、有力に無視し得る制度」であり、「便利を尊ぶか、民主政治の根本原則を尊重するか」の分かれ目になると答弁しました。便利だから認めるのか。それとも、民主政治の根本原則を守るのか。この問いは、今の私たちにもそのまま突きつけられています。

 

こうして日本国憲法は、緊急政令や緊急財政処分を設けることなく、参議院の緊急集会や、必要な法律を平素から準備しておくという方法で対処することにしました。それにもかかわらず、今、明治憲法時代の制度を復活させ、国民の自由を制限する内閣の権限を強化しようとしているのです。私たちは、この議論をよほど覚悟して見ておかなければなりません。

 

参議院の憲法審査会では、合区解消のために都道府県ごとに議員を選出することとし、人口比例選挙を否定する改憲案が議論されようとしています。しかし、合区解消はブロック制導入などの法律改正でも対応できます。それにもかかわらず、投票価値の不平等を憲法で固定化し、憲法14条の平等原則に対する例外を創設してよいのでしょうか。この改憲は、地方自治や参議院のあり方など、憲法の基本構造にも影響します。

 

自衛隊明記や9条2項削除論に至っては、平和憲法としてのアイデンティティの放棄です。これは単なる条文操作の問題ではありません。主権者として、自分はどのような国に住みたいのか。自分の子どもや孫に、どのような国を手渡したいのか。その生活の大前提を問い直す問題です。国民が無関心でいてよいわけがありません。

 

防衛費・防衛関連経費は、毎年拡大しGDP比2%水準に迫る規模にまで膨張しています。その一方で、医療・介護・年金などの社会保障費は「財源不足」を理由に抑制が続いています。憲法9条が目指した平和国家と、25条が目指した福祉国家は、決して無関係ではありません。軍事を抑制し、人間らしい生活を保障する。この戦後憲法の設計が、今大きく揺らいでいます。1957年、米軍基地拡張に反対した砂川事件と、生活保護費削減に異議を唱えた朝日訴訟が同じ年に争われたことも、この問題が戦後早くから表裏の関係にある現実の課題であったことを示しています。

 

高市首相は2026年4月の自民党大会において、「どのような国を創り上げたいのか、その理想の姿を物語るものが憲法です」と述べ、改憲にアクセルを踏みました。確かに、憲法は理想を語るものでもあります。日本国憲法自身も前文で、「崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と宣言しています。しかし、ここで問われるべきは、その理想の中身です。権力を強め軍事を優先する理想なのか。それとも、自由と平和と個人の尊厳を守る理想なのか。現行憲法の理想が後者であることは明らかです。

 

ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、「近代は未完のプロジェクトである」と述べています。理性・自由・民主主義・法の支配という近代の理念は失敗したのではなく、いまだ完成しておらず、引き続き実現されるべき課題であるという意味です。憲法も、まったく同じです。憲法は、制定された瞬間に完成するものではありません。市民の討議によって絶えず解釈され、更新され、実質化されていく、継続的な民主的学習過程の成果として理解されるべきものです。

 

だからこそ、感情に任せた拙速な改憲によって、簡単に変えてよいものではありません。むしろ、未完のプロジェクトをより完成に近づけるために、私たち自身が不断の努力によって理解を深め続けることが求められています。日本国憲法12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」と定めています。

 

権利だけではありません。自由も平和も、誰かから与えられるものではなく、市民が対話と熟議によって築き続けるものです。暴力ではなく言葉によって合意を形成し、よりよい社会を共同でつくっていくこと。それが「憲法愛国主義」と呼ばれる考え方の核心であり、立憲民主主義の本質でもあります。

 

私自身、中学時代を海外で過ごした経験からか、高校時代は弓道に打ち込み、新渡戸稲造の『武士道』に傾倒した愛国者でした。今でも、愛国者であるという自覚はあります。ただ、今の私にとっての愛国心とは、日本という国家そのものへの無条件の愛着ではありません。日本が持っている憲法価値、すなわち立憲主義への愛着です。政権党がどのようなものであろうと、自由と平和という価値を大切にしたい。個人の尊厳を大切にする国であり続けてほしい。そう願っています。

 

チャールズ国王は、民主主義を守り、法の支配と自由で多様な社会を次世代へ引き継ぐ必要性を語りました。そのとおりだと思います。民主主義は、自動的に正しい結論を出してくれる制度ではありません。ときに独裁を生み、ときに排外主義を生み、ときに暴走する、扱いづらい制度でもあります。だからこそ、それをどう使いこなすかは、私たち主権者の力量にかかっています。

 

塾生の皆さんも、そして私たち市民一人ひとりも、いま問われています。憲法を、単なる試験科目として学ぶのか。単なる法の一つとして無関心でいるのか。それとも、自分たちの自由と平和を守るための知恵として学び、血肉にするのか。

 

憲法は、過去の人々が私たちに残してくれた完成品ではありません。私たちが日々の学びと対話と行動によって、少しずつ実質化していく未完のプロジェクトです。そのプロジェクトを前に進める責任は、今この瞬間も、私たち一人ひとりの手の中にあります。