第374回 東京裁判の光と影

今年9月2日は、81年前日本が降伏文書に署名した日です。そして1946年5月3日は東京裁判(極東国際軍事裁判)開廷日で、今年開廷80年に当たります。
毎年8月になると、日本のメディアでは、広島・長崎への原爆投下をはじめ戦争が多く取り上げられますが、その多くは日本の戦争被害を中心としたものです。現在も、日本社会が自らの加害の事実に向き合う姿勢は、なお十分とはいえません。その一因として、東京裁判のあり方を考える必要があります。
東京裁判は、日本の侵略と戦争犯罪を公的に記録し、国家指導者の責任を問うた歴史的に重要な裁判でした。他方で、その法的根拠や手続には深刻な問題もありました。この東京裁判には、法的な観点と歴史的事実において明確な「光」と「影」があります。
法的観点から見た場合、ナチス・ドイツを裁いたニュルンベルク裁判がロンドン協定に基づいて設置されたのに対し、東京裁判はマッカーサー特別宣言と極東国際軍事裁判所条例によって設置されたことから、まず裁判所の設置根拠自体が問題になりました。
ですが、最大の争点は、「平和に対する罪」、すなわち侵略戦争の計画遂行を、行為時に個人を処罰できる国際犯罪といえたかという点です。捕虜虐待や民間人殺害などの通常の戦争犯罪は、ハーグ陸戦条約や国際慣習法によって以前から禁止されていました。
これに対し、1928年のパリ不戦条約は、国家が「国策の手段としての戦争」を放棄することを定めていましたが、その違反を個人の犯罪とする規定も、刑罰も、「侵略戦争」の明確な定義も置いていませんでした。この点を捉え、パール判事は、平和に対する罪は事後的に創設された犯罪であり、罪刑法定主義に反すると批判しました。
多数意見は、ニュルンベルク判決(1946年)の論理を採用し、不戦条約によって侵略戦争は違法であり、その計画・遂行に関与した国家指導者には個人責任が生じるとしました。また、国際法は国内刑法典のような完結した成文法体系ではなく、条約、慣習、国家実行、一般原則によって形成されるとして、厳格な成文法主義よりも実質的正義を重視したのです。
しかし、行為の違法性から個人の刑事処罰可能性を直ちに導くことには、なお論理的な飛躍があります。現在の国際刑事裁判所に関するローマ規程22条が、行為時に犯罪でなければ処罰できず、犯罪構成要件を厳格に解釈すべきと明記しているのは、東京裁判やニュルンベルク裁判への批判を踏まえたものといえます。
適正手続の点にも問題がありました。極東国際軍事裁判所条例9条は、弁護人選任権や反対尋問権など一定の防御権を保障していましたが、同条例13条は、裁判所が厳格な証拠法則に拘束されず、証明力があると判断した証拠を広く採用できるとしていました。そのため、伝聞証拠なども広範に採用されたのです。
また、裁判官はすべて対日戦勝国から選ばれ、マッカーサーが任命しました。独立した上訴裁判所もなく、翻訳や弁護準備の面でもその保障の不備は否めません。現在の国際刑事裁判所規程が無罪推定などを詳細に保障していることと比べれば、東京裁判の手続保障は不十分であったといわざるを得ません。
何よりも、東京裁判で裁かれたのは日本側の指導者だけであり、連合国側の行為は審理の対象になりませんでした。原爆投下、都市への大規模空襲、ソ連の対日参戦と捕虜抑留など、戦勝国側の行為の違法性は裁判の管轄外とされています。
もちろん、他者も違法行為を行ったという事実が、日本側被告人の犯罪を正当化するものではありません。しかし、国際刑事法が普遍的な法であるためには、同じ基準が適用されなければならないはずです。勝者だけが敗者を裁く構造は、法の普遍性と裁判の正統性を損ないました。
昭和天皇が訴追されなかったことも問題といえます。条例に天皇を当然に免責する規定はなく、訴追しないことは占領政策上の判断でした。ウェッブ裁判長らも、天皇を訴追せず、その周囲で助言した者だけを裁くことの不整合を指摘していました。
それでも、こうした法的欠陥から、日本軍や政府による侵略と戦争犯罪の事実まで否定することはできません。東京裁判を「完全に正当な裁判」だから全面的に受け入れるのか、「すべて無効な復讐裁判」だから全否定するのかという二者択一で捉えるべきではないのです。
法的な意義として肯定的な点もあります。第一に、国家指導者にも国際法上の個人責任があり、公的地位や上官命令によって当然には免責されないという原則を示したことが挙げられます。これは、その後の現代国際刑事法の形成に大きな影響を与えました。
第二に、戦争加害者の不処罰を克服しようとしたことが挙げられます。国家の名で行われた犯罪について、政策決定者も法の外に立てないという思想は、東京裁判の重要な遺産です。
第三に、その裁判自体もまた、罪刑法定主義や裁判所の独立、公平な証拠法則という「法の支配」に拘束されなければならないという教訓を残しました。どれほど重大な犯罪であっても、裁く側が法を無視してよいことにはなりません。
こうしてみると、最近のトランプ政権による国際刑事裁判所(ICC)への制裁などの露骨な攻撃は、ニュルンベルク裁判、東京裁判を経て築き上げてきた個人の戦争犯罪を裁く歴史的潮流を止めてしまう危険があります。このICCへの攻撃を批判することは、日本の検察官出身の赤根智子さんが所長をしているからというだけではない、日本にとって戦争と法の支配への向き合い方にもかかわる重要なことなのです。
法の支配を力による支配へ逆行させないためにも、日本の立場を明確に発信するべきです。トランプ政権は歓迎しないかもしれませんが、長期的には日米関係をより強固にし、国際社会からの日本への信頼を維持するために必要なことと考えます。
日本は戦後、1951年のサンフランシスコ平和条約11条において、東京裁判その他の戦争犯罪法廷の「judgments」を受諾し、刑を執行する義務を負いました。この文言は、東京裁判のすべての法理を永久に正しいと認めたとまではいえません。しかし、日本が判決の効力と刑の執行義務を受け入れ、それを前提に国際社会へ復帰したことは否定できません。
では、歴史的事実の面で、東京裁判は何を残したのでしょうか。
最大の光は、中国への侵略を「戦争」ないし「侵略」として可視化したことです。当時の日本政府は、日中間の全面的な武力紛争を長く「支那事変」と呼び、正式な戦争ではないかのように扱いました。これに対して東京裁判は、満洲事変から日中全面戦争に至る過程を、日本の政治家や軍人が計画・遂行した侵略戦争として法的に構成しました。
その法理に罪刑法定主義上の問題が残るとしても、日本の対中行動を「進出」「自衛」ではなく、国際法に反する侵略として記録した意味は大きいといえます。
また、南京事件を孤立した例外としてではなく、広域的な加害の一部として記録したことも重要です。判決には、平頂山など撫順周辺における住民虐殺、漢口や長沙における捕虜殺害、桂林における強制売春、住民に恐怖を与えることを目的とした爆撃などが記録されました。
中国の被害者の証言、外国人居留民の報告、軍関係文書などを公判記録に残し、日本軍の加害の広がりと反復性を明らかにしたことは、その後の歴史研究にとっても重要です。戦時中、日本国民に知らされず、あるいは隠蔽されていた加害の実態を、新聞やラジオを通じて国民に知らせる契機にもなりました。
さらに、こうした公的記録は、戦後の日中関係の事実的基盤の一部となりました。1972年の日中共同声明で、日本側は「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感し、深く反省する」と表明しています。東京裁判による責任確認と日中国交正常化による政治的和解とは別の事象ですが、いずれも日中関係の重要な節目といえます。
他方で、裁判の影も深く残りました。第一に、東京裁判は日本社会にとって、自国の司法が自ら加害者を裁いた事件ではありませんでした。「外国から裁かれた」という外在性が残り、裁判の法的欠陥を批判することが、侵略や虐殺の事実まで否定する態度へ転化しやすくなってしまったのです。
第二に、米国の政策判断により、重大犯罪の一部が裁判の対象から除外されました。最も明白な例は731部隊です。そのほか、毒ガス・化学兵器の使用や慰安所制度、中国人労働者の強制労働、昭和天皇の責任も、十分には追及されませんでした。
第三に、責任が少数の政治家や軍人に集中した結果、「悪かったのは一部の軍国主義者であり、一般国民は軍部に欺かれた被害者である」という物語が形成されやすくなりました。その下では、企業や官僚、メディア、教育機関、司法、そして一般国民が、侵略戦争や植民地支配をどう支えたのかが問われにくくなります。もちろん、政策決定者と一般国民とでは、責任の性質も程度も異なります。しかし、その違いを認め、社会全体の関与を検証することも必要です。
1972年の日中国交正常化に際し、周恩来総理は、日本の軍国主義者と広範な日本人民とを区別し、日本人民もまた軍国主義の被害者であったという考え方を示しました。中国政府は、両国民の友好のため、国家間の戦争賠償請求を放棄したのです。この判断は、日本の戦後復興にも大きく寄与しました。
しかし、それが日本側の一部で、「中国も一般の日本人は悪くないと言っている」「賠償請求が放棄された以上、戦争責任は解決済みである」という自己免責の論理として受け取られたとすれば、大きな問題です。国家間の賠償問題の処理は、被害者の苦痛の消滅も、事実検証の必要性の消滅も意味しません。
東京裁判が日本による侵略と加害の事実を公的に記録したことは、その後の日中共同声明(1972年)、日中平和友好条約(1978年)、日中共同宣言(1998年)、2008年の日中共同声明という四つの基本文書にもつながる歴史的基盤の一部となりました。他方で、法的・外交的な「決着」が、被害者一人ひとりの救済や日本社会による事実解明の必要性を覆い隠す影も残しました。
さらに、日本の司法は、東京裁判の後を引き継いで、自ら戦争犯罪や加害責任を追及することをほとんどしませんでした。戦前の裁判官の多くが戦後も職にとどまり、司法自身による過去の検証と清算は極めて限定的でした。これは、日本の裁判所が戦前・戦時体制と決別する役割を十分に果たさなかった一因であり、今日の官僚司法の遠因と考えられます。
ドイツでも司法の人的清算は当初不十分でした。しかし、フリッツ・バウアーら検察官や市民社会が国内司法に働きかけ、ナチスの犯罪を国内刑事裁判の対象とし続けました。日本に欠けていたのは、司法が自らの過去を検証し続ける制度と意思だったのではないでしょうか。
このように東京裁判は、戦後の日本にとって不可欠でしたが、決して十分ではありませんでした。侵略と戦争犯罪を公的に記録し、国家指導者の個人責任を示したという光がある一方、事後法、適正手続、勝者の裁き、選択的訴追という影を残しました。その影が、日本社会自身による過去の克服を不十分なものにしたといえます。
だからこそ、私たちは、東京裁判が残した証拠と被害者の声を基礎として、裁判の影によって取り残された加害の事実と責任を、日本社会自身の手で明らかにし続ける必要があります。過去に向き合うことは、現在の世代が過去の罪をそのまま背負うことではありません。何が起きたのかを知り、同じ過ちを繰り返さないための責任を引き受けることだと考えます。
侵略や戦争犯罪は必ず罰せられるという普遍的な原則を東京裁判は示しました。この成果は、今、世界で起こっている戦争を正当化する「力による平和」という考えを克服し、国連憲章を中心とする国際秩序を堅持する信念につながります。法の支配を尊重することによってのみ、平和のための強固な基盤を築くことができると改めて確認したいと思います。
伊藤 真
司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
メールマガジン「伊藤塾通信」で発信しています。
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