2022.11.01

第328回 言葉と民主主義

不登校YouTuberのゆたぼんさん(13歳)が原爆ドーム訪問の際の動画で「1945年8月6日にアメリカが日本の広島県と長崎県に原爆を落とした」と発言したところ、ネット上で「長崎は8月9日だろ」などと批判されていることに対して、脳科学者の茂木健一郎氏が「ゆたぼんにレベルが低い、義務教育受けろ、と言っている人たちの方がレベルが低い」とツイッターに投稿しました。

そして、「中学入試の学力ごときの知識やスキルが学力だと思っている」「そうした低レベルな方々をたくさん生み出してしまっているのが日本の義務教育だと、我々は反省しなくてはいけない」と述べています。

 

私は、茂木氏のようにもやもやした気持ちを言語化して批判できることが知性の一つだと考えています。そして、それは単に個人の知性というにとどまらず、言葉で議論を尽くして物事を決めていく民主主義というプロセスにとっても重要なことだと考えています。

 

言葉尻を捉えて批判するのではなく、本質から批判しながら、よりよい結論を作り出そうとする過程が民主主義にとって重要です。そうした建設的な議論ができる人間を育てることが本来は義務教育の役割であるはずです。義務教育というのは、物事を冷静に分析して判断したり、自分の頭で考えるための土台となる基礎知識を身に付ける場ですが、それと同時に、自立した市民を育成するための主権者教育、市民教育の場でなければなりません。ですが、残念ながら日本の教育はそうではありませんでした。もちろん、現場で頑張っている教員も多くいるでしょうが、国家のシステムとしてそのようなものになっていないことは認めざるを得ないでしょう。

 

大人が子どもたちに言葉の大切さを伝え、一度口にしたことはしっかりと守ろうとする一貫性が大切であることを教えると同時に、自分の考えの不十分さに気づいたらそれを認めて撤回する謙虚さと誠実さが大切なことであることを学校や家庭において伝えていくべきなのです。全国民の代表として仕事をする国会議員にとっては、こうした誠実さ(integrity)という資質が特に必要であることを国民・市民で共有することが民主主義国家においては不可欠だと思います。

 

野田元首相が10月25日に衆議院本会議で行った安倍元首相への追悼演説について感動的なスピーチだったという声も多いようですが、私には、言論の重要性を謳った以下の部分は強烈な皮肉に聞こえてしまいました。

 

「あなたの無念に思いを致せばこそ、私たちは言論の力を頼りに、不完全かもしれない民主主義を、少しでも、よりよきものへと鍛え続けていくしかないのです。」「真摯な言葉で、建設的な議論を尽くし、民主主義をより健全で強靱なものへと育てあげていこうではありませんか。」

 

いわゆる「ご飯論法」を始めとする議論のはぐらかしや質問に誠実に答えようとしない態度、虚偽答弁の繰り返し、自分の発言に責任を持たない姿勢が安倍政権の際立った特徴でした。このように言葉による議論を封じて、数の力で有無を言わせない政治手法は強いリーダーシップのあらわれとして歓迎する人もいるでしょうが、私は立憲民主主義を重視する立場ですので、評価することはできません。人間としてどれほど魅力的であったか否かはこうした場面では評価基準にならないからです。

 

中国共産党大会で習近平氏への権力の集中がさらに進みました。側近を親派で固めて異論を許さない体制です。人間は完全ではないからこそ多様な意見を持ち寄って議論しようとするのが民主主義ですが、一人の為政者の言動が絶対に正しいという前提を取るのであれば、議論する必要はありません。中国も毛沢東主席に権力が集中して文化大革命という混乱を国内に招いたことへの反省から、集団指導体制をとったはずなのですが、どうやらそうした歴史から学ぶ姿勢すら放棄してしまったようです。

 

憲法の上に共産党規約があるのですから、裁判所といえども共産党の意向に反することができません。「人治から法治へ」のスローガンの下で法治主義が進められてきましたが、それは人民をコントロールするために法律に従えというものであり、人々の権利・自由を守るための立憲主義的な法治主義ではありません。米国を抜いて世界一の覇権国になるのだという国家目標が第一なのですから、仕方のないことかもしれません。日本が明治維新の時期に国家中心で近代化を図ろうとしたことと重なります。

 

2012年の自民党憲法草案では、一人ひとりの個人よりも国を重視していて、その国も「天皇を戴く国家」であることが前文に明記されています。そして、国民は自分たちで国土を守る責務を担わされ「国を成長させる」役割を負います。極めつけは憲法制定の目的が、個人の尊重や人権保障ではなく、「国家と文化の継承」と謳われています。ここに統一教会の意向がどれほど反映しているかはわかりませんが、このような国家を改憲によって目指すのであれば、中国の現体制を批判する資格は無いように思います。

 

こうした専制主義は異論を封じます。体制によって保護され、体制に賛同する人にとってはこれほど心地良いものはないのでしょうが、体制批判を許しませんから、体制からはじかれた者や保護されない者は異論を差しはさむことすら許されません。大変な息苦しさを感じることでしょう。人権派弁護士、ジャーナリストなどが当局に拘束されたりして極めて厳しい状況に置かれています。つまり専制主義という体制が人々の自由、社会の空気感をも支配してしまうのです。民主主義が人権保障を目的とするものであることがよく理解できます。専制主義と民主主義の対立というように単純化することはできませんが、中国、ロシア、北朝鮮など日本を取り巻く近隣諸国がこうした言葉による議論の余地を認めない国々となると、日本の在り方も問われることになります。

 

さて、私たちはどんな国を目指そうとしているのでしょうか。自由の国がいいのか、それとも国が安心を与えてくれるけれど自由が制限されている「奴隷の幸せ」の国でいいのか、本来、私たち自身が決めることができるはずです。民主主義は徹頭徹尾、多数決で物事を決めていきますから、主権者が国民である以上は本来、国民が決められるはずです。国民の多数が国会議員の多数を選び、その多数派から内閣総理大臣が選出されて内閣を組織します。総理大臣には国務大臣の任免権があり(68条)、総理大臣によって組織された内閣が閣議決定を通じて行政権を一手に握ることになります。裁判所との関係では最高裁長官の指名権(憲法6条2項)や裁判官の任命権(79条1項、80条1項)を持ちますから、司法権をも支配することになります。その上、裁判所は予算も内閣に握られています。

 

総理大臣は、国会における第1与党の党首ですから、小選挙区選挙における公認権を通じて圧倒的な力を党内で持ち、政権与党すなわち国会を掌握します。そして首長としての総理大臣は閣僚や官僚に対する人事権を通じて行政権を事実一人で掌握します。その上、司法権も人事権と予算編成権によって支配することが可能です。議院内閣制の下ではこうした内閣総理大臣への権力の集中は制度上、避けられないのです。安倍元首相はまさにこうした憲法で認められた権限を最大限行使して、さらに自身の魅力的な人柄も活用して自らに権力を集中させました。歴代総理大臣の中でも最も憲法を使いこなし、言葉による説得ではなく数の力によって自分の目指す政策を実現しようとした人物として希有の総理大臣であったことは確かです。

 

さて、こうした権力の集中を許してしまう日本国憲法は行政統制の力が弱く、不完全な憲法なのでしょうか。確かに米国では、大統領に行政権が帰属する独任制をとっているため、大統領には強大な権力が集中していますが、他方で徹底した権力分立を採用しており、解散のない連邦議会が大統領の政策を監視・抑制・批判したり、連邦最高裁判事の任命に上院の承認が必要な上、連邦最高裁が躊躇なく大統領の政策に対して違憲判断を下したりするなど、権力相互間の抑制・均衡が働いています。

 

それに比べると日本においては議院内閣制の下での首長たる総理大臣への権力の集中はかなり際立っており、行政統制機能が十分に働かない仕組みのように見えます。ですが、憲法は国会に行政統制機能を働かせるために、国会議員の少数派であっても国会を召集して内閣を監視監督することができるように、各院の4分の1以上の議員の要求による内閣の臨時国会召集義務を規定します(53条後段)。参議院議員248人の4分の1は62人ですから、全国会議員713人の8.7%の議員が要求すれば国会を開催して内閣の行政権行使を監視・監督できるようにしたのです。まさに少数派からの行政監視機能を発揮させるための制度です。その上、裁判所に違憲審査権を付与して、政治部門の権力行使に対して裁判所が違憲無効と判断することができるようにしています(81条)。

 

ところが、安倍内閣は臨時国会の召集要求をコロナ禍を含めて3度も無視、菅内閣も岸田内閣も「与党と相談する」と言って、野党議員による臨時国会召集要求に応じようとしませんでした。そしてそれを裁判所で争っていますが、地裁、高裁とも明確な違憲判断を避けています。憲法が「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限」を裁判所に与えているにも関わらず、裁判所法や行政事件訴訟法などの法律によって裁判所の判断できる権限を制限していることに加えて、裁判官の政治部門への遠慮がちな態度が顕著です。

 

このような状況の中で、衆議院の憲法審査会では、緊急事態における会期延長を可能とする憲法改正をするべきだという議論が行われました。その理由が国会による行政統制機能を強化するためだというのですから、ちょっと驚きです。せっかく憲法が行政統制機能を仕組みとして設計しているにもかかわらず、それを無視する政権与党が行政監視機能を重視するために、緊急事態において国会議員の任期延長ができるような改憲をするべきだと主張しているのです。任期延長ということは国民が選挙によって国会議員を入れ替える機会を奪ってしまうことになります。

 

ここでいくら批判しても自民党は数の力で自分たちの支持基盤に有利になるような政策を実現しようとします。それが旧統一教会の考えと一致していたとしても、それは民主主義ですから仕方がありませんし、主権者国民の多数がそうした政党を支持し続けるのであれば、それはそれで仕方のないことです。

 

専制主義と民主主義の決定的な違いは政権交代があるかどうかです。そしてそれを可能にするかどうかは多分に選挙制度にかかっています。憲法が想定する政治の仕組みは、「国民の多数が国会議員の多数を選ぶ」ことからすべての権力行使が始まります。あくまでも国民主権なのであって、国会議員主権ではないからです。となると、国民の声が少なくとも正しく反映する選挙制度であることが不可欠であり大前提でなければなりません。国民の多数派の考えが変われば政権が交代する仕組みであることが必要なのです。

 

ところが、現在の選挙制度の下では、たとえば7月10日参議院議員選挙の比例区における自民党得票率は34%でしたが、選挙区における議席数では60%を占めています。選挙制度の歪みと非人口比例選挙の結果、国民の少数が国会議員の多数を選出する選挙制度になってしまっているのです。これが仮に11ブロック制が実現すると、有権者の49.9%が参議院議員の過半数を選出できるようになりますから、実質的には人口比例選挙といえます。

 

衆議院でも同様の改革が進めば、これによって政権交代が可能となります。憲法は一時的には総理大臣に権力が集中しても、その政治運営が国民にとって不利なものであることがわかったときには国民の多数が選挙によって政権を交代させて、新たな政権による旧政権への行政監視を行うことを想定しているのです。つまり時間軸による行政監視機能を発揮することを憲法は期待しているといえます。

 

憲法改正論議を進める前に、こうした人口比例選挙の実現など現行制度の法律レベルで、民意を反映した国会にし、より行政統制機能を強化していくことが必要です。これによって初めて国会を真摯な言論によって政策を闘わせる場にし、その過程を国民に示すことによって、国民自身が選挙によって適切な政党や候補者を選ぶことができる健全な民主主義が実現することになります。「真摯な言葉で、建設的な議論を尽くし、民主主義をより健全で強靱なものへと育てあげていく」というのはこうしたことなのだと思います。