2022.12.01

第329回 説得の技法

サッカーワールドカップで日本がドイツ、スペインに逆転勝利しました。スポーツの世界ではこうして結果を出すことに、圧倒的な説得力があります。様々な困難を乗り越え続けてきた各選手の努力の意味や監督の戦術の巧みさを、誰もが納得せざるを得ない結果を出すことによって証明してみせました。「最後まで絶対に諦めない」姿によるすばらしい説得のかたちです。

 他方で同じスポーツ関連でも、残念なことに、オリンピックを巡る汚職疑惑が一段と混迷を深めています。純粋なスポーツの祭典とはほど遠いものになってしまっている商業主義の現実はひとまず置くとしても、ここまでお金の力にものを言わせるのはどうかと思います。資金力によって目的を実現しようとする、これも金の力による説得という1つの方法なのかもしれませんが、不公平感は否めません。議論によって優劣を決めるのではなく、暴力は論外としてお金の力で相手を屈服させようとすることは、民主主義国家における「よき市民」のするべきことではありません。

 

 より民主的で平和的な説得の技法を誰もが身につける必要があるはずです。いつも言っていることですが、伊藤塾で法律を学ぶということは、何が正しい答えかわからない問題に対して、自分の頭で考えて答えを創り出し、それがなぜ正しいと考えるのかを「事実」と「論理」と「言葉」で説得する力を身につけることに他なりません。このことを意識するだけでも、伊藤塾で法律を学ぶことによる効果が格段に違ってきます。

 

 言うまでもなく、私たち人間は不完全な生き物です。そうした不完全な人間が、不完全な法律を使って様々な事案の紛争を解決しようとするのですから、その結果も不完全なものとなる可能性が高いです。それでも何の基準もなしにトラブルを解決しようとするよりは、よほどマシであることは確かです。法があることによって、法的安定性が確保され、私たちの行動の結果の予測可能性が担保されて、自由の保障につながるからです。こうした法による説得の技法をしっかりと学び、使いこなせるようになることは、自由という価値を尊重する以上は、将来、どんな分野で活躍するに際しても必要なことです。

 

 さらに言えば、こうした説得の技法は何も法律実務家や行政官になる人だけが学べばよいわけではありません。何が正しいかわからない問題について相手を説得しなければならない場合は、政治、経済、経営などの社会科学の分野だけでなく、科学をどう使っていくかという観点から自然科学の世界においてもいくらでもあり得ることだからです。軍事利用するための学問研究活動は許されるのか、コロナ対策としてどのような手法をとることがベストか、地球環境危機から脱するために私たちは何をしたらよいのか、こうした問題はまさに正解がわからず、だからといって何の議論もなしに、為政者の都合で政策決定されるようなことがあってはなりません。しっかりと議論して考えの違う相手を説得する努力をしてもらわなければ困ります。その議論の過程を見て、私たちは自分の考えをさらに進化させることができるのです。

 

 また、説得の技法を学ぶということは、同時に相手の主張を正しく理解することにつながります。相手を感情的に批判するのではなく、理解するためにも、事実と論理と言葉によって議論する技法を学んでおくことは必要なことなのです。相手の主張のどこに納得できないのか、事実(ファクト)が違うのか、論理(ロジック)が正しくないのか、言葉(概念の使い方)が正しくないのか、一体どこに問題があるから納得できないのかを、理解することは建設的な議論にとって不可欠だからです。

 

 法律を学ぶことによって、こうした説得の技法を学び訓練することができるのですが、それは何が正しいかわからない問題について、議論によって一定の合意を得て、私たち自身が自由に生きるために必要な技法です。まさにリベラル・アーツといっていいものです。教養などと訳されることのあるLiberal Artsですが、ギリシャ・ローマの時代から自由七科(文法、修辞、弁証、算術、幾何、天文、音楽)は自由人として生きるために必要な教養でした。文法、修辞は言葉ですし、弁証、算術、幾何は論理による証明に関わるものです。法律の勉強を通じて、事実と論理と言葉によって説得する技法を学ぶことは、何者にも支配されず、自分の人生を自分の意思で生きるために必要となります。さらに、そうした自立した市民同士が議論によって、社会のあり方、国のあり方を決めていく民主主義にとっても不可欠の教養だと考えます。

 

 法律を学ぶことによって、物事の本質を捉えて、主張と批判がかみ合うような議論をする訓練ができます。主張には説得的な理由付けが必要であり、その理由も趣旨などの本質的なものから、条文の文言による形式的なものによるものまであることもわかります。法的三段論法を学びますから、批判する際にも規範を批判するのか、事実のあてはめを批判するのか対象を区別することによって、より建設的な議論が可能になります。相手の意見を一旦受け入れてから批判する、「確かに、しかし、従って」という法律文書の論証方法は弁証法にもつながるひとつの判断枠組みとして有用です。

 

 フランスでは、街角でカップルが政治議論を普通にしていると聞いたことがあります。どれほどの頻度かはわかりませんが、少なくとも私の知り合いのフランス人夫婦には当てはまっています。フランスにはバカロレアという共通大学入学試験があります。ナポレオンがバカロレアを創設したときから哲学が試験科目なのですが、例えばこんな問題が出題されます。「権力の行使は正義の尊重と両立可能なのか」「行使する権利のあることすべてが正しいものであるか」「自由であるためには選択できるだけで充分であるか」等、問題の意味を読み取ることすら難しい問題です。何度か制度改革が試みられているようですが、かなりの準備が必要な難問ばかりが出題されてきました。もちろん、どの哲学者が著作で何を言っているのかを具体的で正確な表現として記憶しておくことは加点事由として重要ですが、それ以上に大切なことは、論述の枠組みだそうです。

 

 そしてそれは建設的な議論をするために重要なことであり、民主主義の担い手としての市民を育成していく上で重要なことなのだと指摘されています(「バカロレアの哲学」坂本尚志)。フランスの大学入試の哲学試験には到底及びませんが、私も大学受験のときに独自に論証の型を作り、それを応用して東大入試の記述試験対策をしていました。それを司法試験に応用して論点ブロックによる答案作成法を40数年前に生み出したのです。

 

 本試験の限られた時間の中で答案を完成させるために、予め論証パターンをブロックのように作っておいて、それを問題文に合わせて並べ替え、修正して答案を完成させる手法です。論述の枠組みを事前に用意しておくことは、本試験で思考過程を説得的に表現するために極めて合理的で有効な方法だと考えて、この答案作成法を受験生に伝えてきました。

 

 盤石な基礎知識をわかりやすく体系的な講義によって修得し、それを本試験問題を素材にして知識の使い方と法律文書の書き方を学ぶ。その際に予め論証を用意しておいてその使い方を訓練するという法律実務家養成方法を40年ほど前に司法試験受験界に持ち込んだときには、大学教授からかなり批判されました。

今ではほとんどの司法試験受験指導者がこれに近い方法を採っていますが、私の思いとしては、これは単なる受験テクニックではなく、こうした学習の過程で、自立した市民として必要な資質が磨かれるはずだという強い確信がありました。そして、どんなに批判されようと圧倒的な合格実績を出し続けることでこれを跳ね返してきました。

 

 こうした論証の仕方や法的三段論法も含めて、法律を学ぶということは、建設的な議論の仕方を学ぶことでもあり、それは自立した市民、主権者を育成していく上で極めて重要であり必要なことだと考えています。事実と論理と言葉によって説得する技法を身につけることによって、思い込みや偏見から脱し、自分と違う意見であっても寛容に受け容れることができるようになります。自分のこれまでの経験や知識と異なるものを頭から拒否するのではなく、一旦は耳を傾け、相手の主張する事実と論理と言葉を理解しようと努める態度は、建設的な「批判的思考」にとって不可欠です。違うものへの寛容さ、違うことを拒否しない態度は、差異を理解し、受け容れ、他者、社会、世界そして自己に対しても、批判的である人間、つまり「よき市民」となるために極めて重要なことなのです。

 

 憲法は13条前段において個人の尊重を基本的な価値にしています。それは「人は皆ちがう」ということを受け容れ、その違いを尊重することに他なりません。そして憲法がそれを基本的な価値にしているのは、こうした違いを受け止めることができる市民こそが、憲法の担い手である自立した市民として想定されているからなのだと思います。

 

 自分の意見を絶対視することをせずに、事実と論理と言葉によって説得される柔軟性も重要なことです。自らの意見が変わることは決して悪いことではありません。新たな情報(事実)や論拠(論理)が手に入ることで、それまで自分が正しいと考えていたことが正しくなかったと気づくことがあります。そこで自らの意見に固執せずに自分の意見を変える、そして何度でも考え直す、疑い続けることが重要なのだと思います。こうして粘り強く考え続ける力も「思考の型」があるからこそ可能なのです。

 

 伊藤塾で学ぶ体系マスター憲法などは、本来義務教育レベルで学んでおくべきことだと持っています。中高生から伊藤塾で学ぶことはけっして早すぎることではありません。また、新たな学びを始めることに遅すぎることもありません。一人でも多くの皆さんが伊藤塾での法律学習を通じて「説得の技法」を身につけ、自立した市民として社会に貢献するために巣立っていってほしいと願っています。