2023.05.01

第334回 目的と手段

 5月は憲法記念日があるので登壇するシンポジウムや講演も増え、けっこう忙しいです。改憲派の集会も毎年行われています。改憲を実現したい人たちは 何かの理由をつけて改憲が必要だと言っているようですが、これまで説得的な理由を見たことがありません。マッカーサーに押し付けられたとか、古くなった、外国が何回も改憲しているという理由は昔からの定番ですが、どれも克服された議論なので、さすがに最近はこれをいうと恥ずかしいようで、国会の憲法審査会でも聞かれなくなりました。それでも街中では一般の方からときどき聞くことがあります。日本の憲法教育が不十分だったことの証なのかもしれません。 

 

 改憲派が改憲したいテーマもその時々の状況で変わります。自然災害があれば、条件反射のようにいつも緊急事態条項創設の話が出てきますし、世界のどこかで紛争が起これば、自衛隊派遣だの国際貢献だの、そして日本に万が一のことがあったときやられっぱなしでいいのかといって9条改憲が声高に叫ばれます。第2次安倍政権が始まったころ、改憲しやすくするために96条の国会発議を過半数にしようという提案もされたことがありますが、憲法学者などからの強い反対に合い早々に取り下げています。

 

   軍隊を持つことが一人前の国の証なのだから日本もそうした強い国になりたいと願う人は、国防軍を持ちたい、自衛隊を憲法に明記したいという思いから9条改憲は外せないようです。 その他にも 最近では自民党の憲法改正プロジェクトチームが改憲によって「1票の格差問題」を解消するように提言をまとめました。「最高裁裁判所が人口のみに着目し、人口の少ない所の議員が減らされ、地域の格差や過疎化につながるという悪循環が起きている」と指摘して「最高裁のいいなりになることは、決して日本にとっていいことではない」と強調し、投票価値を平等にしなくても済むように改憲を訴えています。自分たちの票田や地方議席がなくなると困るという、極めてわかりやすい利己的な理由による改憲主張です。

 

   最高裁がもっと明確な違憲判決を出すことで、こうした改憲気運が高まるかもしれません。私が行っている一人一票実現訴訟もこうした改憲の後押しになるかもしれませんが、それはどのような憲法訴訟でも同じことです。安保法制違憲訴訟で最高裁が集団的自衛権行使は違憲であるとまともな憲法判断をすれば、政治部門の多数派は改憲に動き出すことでしょう。最後は主権者国民が決めることなので、これは立憲民主主義の原則に則ったものであり、決して否定するようなことではありません。最高裁の違憲判決の当否は最終的には民主的な改憲手続によって主権者に評価されるのですから、最高裁も自身が非民主的機関だといって違憲判決を躊躇する必要はないのです。これはフランス憲法学でいうところの「転轍手の理論」です。

 

   さて、改憲テーマの話に戻すと、教育の無償化を掲げるのは維新の会を仲間に引き入れたいという魂胆でしょうが、800億以上も費用をかけて改憲などしなくても法律を作って実現すればいいだけのことで改憲など不要です。   本格的なフルセットの改憲案を自民党は2005年に新憲法草案として、2012年には憲法改正草案として発表しています。2018年には安倍元首相が4項目の改憲を提唱しました。2012年の自民党憲法改正草案は機関決定されたものとして未だにこれを維持していますが、そこでは個人の尊重をやめて天賦人権を見直すことや国防軍の創設、そして何よりも憲法制定の目的を国家と文化の継承にあるとする前文が提唱されています。この前文では 国民主権原理や権力分立原理の前に日本は「天皇を戴く国家」であることが宣言されていて、近代立憲主義の流れからは大きく外れる、まさに日本独自の憲法を制定したいという思いがわかりやすく表現されています。

 

   内容を見る限り、「大日本帝国憲法へ逆戻り」というよりも、見かけ上も立憲主義から外れてしまっていますから、大日本帝国憲法の外見的立憲主義すら放棄してしまっているようです。いくら戦前へのノスタルジーがあるといっても、また日本独自の憲法を作りたいということであったとしてもこれはありえないという内容になっています。内容はともかくとして、なんとしても改憲したいということなのでしょうか。

 

   最近は国会議員の任期延長問題で衆議院憲法審査会は盛り上がっています。しかしこれも憲法改正する必要性、すなわち立法事実がありません。緊急事態であったとしても参議院の緊急集会が用意されていますし、何よりも国会議員が自らの任期延長を決めるということは、主権者国民の意思を問う選挙を先送りしてしまうのですから、緊急事態において主権者の意思をないがしろにして自分たちの利益を優先するものだと批判されても仕方ありません。必要性もなければ許容性もない改憲主張の典型といえます。

 

   このように見てくると、憲法改正の必要性があるから改憲を主張するというより、改憲そのものが目的となってしまっているようです。憲法改正はより良い憲法にするための手段です。現行憲法ではどうしても立ち行かなくなってしまったので国民・市民のために より良い憲法に変えることが本来の憲法改正の姿であるはずです。しかし、憲法改正自体が目的になってしまっているのです。

 

   このような目的と手段の取り違えは私たちもよくやってしまいがちです。目の前の仕事が忙しい時にそれに集中するあまり、何のためにその仕事をしているのかという目的を見失いがちです。勉強でも目の前の一問一問に集中したり、1つ1つの講義を聴いたりすることに専念するあまり、何のためにこの問題を解いているのか、試験当日のために必要なのか、自分の弱点補強として必要なのかという目的と結びつけることを忘れてしまいがちです。 

 

  目的に関して、3人のレンガ職人の寓話を目にすることがあります。イソップともいわれますが、出所は必ずしもはっきりしません。次のようなものです。

 

   中世ヨーロッパでレンガ職人が何か仕事をしています。何をしているのですかと聞いてみたら1人目の職人は「レンガを積んでいるのだ。暑くて大変だ」とつらそうに答えました。2人目のレンガ職人は「壁を作っているのだ。カネがいいからやっているだけ」とつまらなそうに答えました。3人目のレンガ職人は「大聖堂を作って神を称えるのだ。光栄だ」と嬉しそうに答えました。という話です。どんな仕事でも何のためにやっているのかという動機や目的意識が重要だという話です。私も仕事や勉強、自分に起こった出来事にどのような意味を与えるのかは自分で決めることだと言ってきました。特に試験の合否という結果の受け止め方において重要なことですが、日々の仕事や勉強もそれと同じように自分で意味づけをすることが必要だということです。

 

    どんな職種においても、実際の仕事では期限と達成目標を明確にすることは不可欠です。そして目標をもって目の前の仕事に集中することはとても重要なことですが、目標を明確にすると同時に「何のために」という目的を意識することが重要です。この目的によって、今やっている仕事の意味が自覚でき、続けることができるのです。これが仕事のモチベーション維持につながることは確かだと思います。ということはこの「何のために」という「目的」も実はモチベーション維持のためという「手段」だったと言えます。とすると本来の目的は何か、そもそも目的と手段は明確に区別できるのかと、ここで新たな疑問が生まれてきます。 

 

 勉強に関しても、目的と目標を明確にすることが大切だと言ってきました。いつの試験に合格したいのかという目標を明確にすると勉強の質が変わります。日々やるべきことを具体的に意識すれば充実して過ごすことができます。「いつか受かればいいな」と思って勉強しているようではなかなか合格も叶いません。合格目標を明確にしてそこまでにこういう力をつけていこう、そのためにはこの期日までにこれを仕上げなければならないという目標を明確にすることは勉強する上でも不可欠です。そしてその目標は、合格という目的にとってどういう意味があるのかもしっかりと自覚しておかなければなりません。

 

   さらに何のために合格したいのかという合格後を考えることが重要だと言い続けてきました。合格して法律家や行政官として活躍したいという合格後を具体的に意識できるとモチベーションも上がり、つらいことも乗り越えられます。それではその法律家・行政官としての活躍という目的はなんのためかと問われると、幸せな人生を送るためとか、人生の成功者になるためとか様々な答えが返ってくることでしょう。法律家・行政官として活躍をして幸せな人生を送ることが目的であり、そのために合格という目標を掲げて努力しているのです。ここで合格は自分が幸せに生きるための手段となります。すなわち合格という目標はその先の目的のための手段となっているのです。

 

    仕事でもKPI(中間目標)はプロジェクトのKGI(最終目標)達成のための手段です。 そして KGIですら、事業発展のための手段としての目標にすぎません。どこまで行ってもゴールは一つの目標であり手段なのです。何かを目指そうとする以上それは目標となり、それはその先の目標のための手段となります。そのときに何のためにこうしたこの目標を目指すのか、これが目的なのです。 

 

 勉強することは目的か手段か、もちろん合格するための手段にすぎません ここでは合格が目的です。では合格することは目的か手段かというと、合格は幸せに生きるための手段に過ぎないのです。では幸せに生きることは目的か手段か。ここでも幸せに生きること自体が、実は生きる意味を考えて悩まずに毎日を穏やかに過ごすための手段に過ぎないとも言えるのです。 これまで目的と思っていたものが、その先を考えてみたら、実は手段であったということは、このようにあり得ることです。

 

   私たちは、まずは目標を明確にしてそこに向かって努力をします。それはその先の目的のための手段と言えます。そしてそれを達成することはその先の更なる目的のための手段となっているのです。私たちは日々この目的・手段を繰り返しながら生き続けていると言っても過言でないのかしれません。生きる過程そのものが大切だということです。日々を大切にしながらそこで私たち一人ひとりが成長していく。そのことが他の人の幸せの役に立つのではないかと思いながら毎日を過ごす。これが憲法13条が保障する幸福追求権(幸福を追い求める過程の保障)という人権の意味なのだと私は考えています。

 

   何のために、という目的をあまりに追求しすぎると訳が分からなくなってくることがあります。ですから自分が幸せに生きるため、または人の幸せに貢献するため、という程度のところに留めておいた方が良さそうです。ちょうど憲法は誰がつくったのか、何に基づいてつくられたのか、それは「憲法の憲法」に基づいてつくられた、または自然法に基づいてつくられたと説明しますが、ではその「憲法の憲法」は何に基づいてつくられたのか、自然法は何に基づいてつくられたのかと問うてみたところでキリがありません。そこで一旦、自然法に基づいてつくられたものなのだと仮定して、そこから先はあえて考えることをやめてみるというのも一つの知恵ではないかと思っています。

 

   それと同じように少し楽に生きるための知恵として、自分の生きる意味をどこまでも追求しすぎるのではなく、自分がある程度納得できる目標設定、そしてその目標を手段とする目的を意識すれば十分なのではないでしょうか。少し面倒な話になってしまいましたが、日々を幸せに大切に生きる、そのための手段としての憲法と同様に、これからの未来を切り開いていく力を自分の中につけていく、そして将来にわたって学び続けることができる、そのための「学び方」を身につける。そのために今、日々勉強しながら努力しているのだと思うことに留めておきましょう。 

 

 こうした日々の努力は必ず将来、皆さんの大きな力になると確信しています。勉強を続けることは努力も必要ですし、楽しいことばかりではありません。ですがこれを続けていくことによって大きな成長が得られるという事実に間違いはないと思います。これまで私は40年以上 多くの受験生を見てきましたが、皆さん、それぞれ成長し多方面で活躍されています。伊藤塾で学ぶことが大きな力になることは確かです。皆さんも目の前の目標を達成するべく一歩一歩、淡々と勉強を続けて欲しいと思います。そこには 必ず大きな意味があるに違いないからです。頑張りましょう。