第335回 最後の一線

先月アメリカで発売された雑誌『TIME』の表紙を岸田首相が飾りました。ギャングのボスのようなすごみがありましたが、本人が選んだ写真なのでしょうか。そのキャプションとして、「日本の選択:岸田首相は数十年にわたる日本の平和主義を捨てて彼の国を真の軍事大国にしようとしている」(JAPAN’S CHOICE Prime minister Fumio Kishida wants to abandon decades of pacifism-and make his country a true military power)と書かれていました。
これに外務省がクレームをつけ、電子版では「かつて平和主義であった日本に国際舞台でより積極的な役割を与えようとしている」(Prime minister Fumio Kishida is giving a once pacifist Japan a more assertive role on the global stage.)に差し替わっています。いずれにしても、世界からは「かつて平和主義であった日本」と見られているということです。防衛費(軍事費)が世界第3位になるのですから、それは軍事大国の名に恥じないものになるのでしょう。それだけの負担を国民が担っていくということなのですが、そもそも防衛費をGDP比2%などとしなくても、GDPが伸びていれば必然的に防衛費も拡大していたはずです。ここでも失われた30年の間に経済成長できなかったツケが回ってきています。ですが、これだけ負担しても中国の4分の1でしかありません。あちらのGDPの伸びが著しいからです。これでも、本気で中国と軍拡競争をするつもりなのでしょうか。本当にこの競争に勝てると思っているのでしょうか。
目つきの悪い岸田首相(個人の感想です)の写真を見て、ちょうど10年前に「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。わーわー騒がないで。」と発言した目つきの悪い人(個人の感想です)を思い出しました。この発言をした麻生元副総理は北朝鮮によるミサイル発射の直後の2017年秋の総選挙で自民党が圧勝した際に「自民が大勝したのは北朝鮮のおかげ」と正直に言ってくれた人です。
2022年12月に発表された安保3文書の中の国家安全保障戦略に「Ⅲ我が国の安全保障に関する基本的な原則」という項目があり、そこには自由、民主主義、法の支配、専守防衛などの言葉が並ぶのですが、憲法が一言も出てきません。この国の安全保障の原則において憲法が登場しないとは驚きですが、これが日本の現実なのかもしれません。アメリカなどの立憲主義諸国では、政治家、官僚が常に憲法に則っていることを強調します。どんな政策でも憲法の枠内で実現することが立憲主義なのですが、それが日本では意識されていません。
2014年7.1閣議決定、2015年戦争法(新安保法制法)、2022年安保3文書における反撃能力の保有と、憲法違反が続くにも関わらず、政治家、マスコミ、そして国民の意識が憲法に向いていません。実質的には憲法で規定された平和主義は過去のものとなり、集団的自衛権を行使する点において明白に違憲となってしまった自衛隊によって世界第3位の軍事大国になろうとしています。それでも憲法を無視するということは、法そのものを無視する態度がこの国に蔓延しているということです。
この安保3文書で反撃能力として敵領土を攻撃する武器を保有できるようにするのですが、内閣法制局長官であった阪田雅裕氏は「自衛隊の……装備についても大陸間弾道弾や長距離爆撃機のような相手国領土への攻撃をもっぱらの目的とするものは持てないとしてきたのである。この点こそが他国の軍隊との決定的な相違であり、9条の規範性の肝であった。」として、憲法9条の死と評しています(雑誌世界2023年2月号)。
どうしてこのような事態になってしまったのでしょうか。冒頭のTIME誌ではいかにも岸田首相が自分で選択したような書き方ですが、そこにはアメリカの意向が相当に反映しているようです。CSIS(戦略国際問題研究所)というアメリカのシンクタンクがありますが、ジャパン・ハンドラーと言われる知日派が日本への要求を数年ごとに突き付けています。
CSISのリチャード・アーミテージ氏が2000年からレポートを発表し、それが日本の安全保障の基本方針となり、これまでそのとおりに実現してきました。第1次アーミテージレポート(2000年10月)では、集団的自衛権の制約が日米関係の阻害要因だとしてその解決や、機密情報保護法の立法を要求し、第2次(2007年2月)レポートでは日本の防衛費が対GDP比で世界134位に過ぎないとして「しかるべき手当」を求め、第3次(2012年8月)レポートでは、「日本は一流国家でありたいのか、二流国家で満足するのか重大な転機にある」として、日本による集団的自衛権行使を念頭に、米軍との共同対処を含めた日本の新たな役割と任務の見直しを求めています。
集団的自衛権行使の要望が実現した後の第4次(2018年10月)レポートでは、日本が防衛費をGDP比1%超えの水準まで拡大させる必要性に言及し防衛装備品の日米共同開発の拡大などを提言し、直近の第5次(2020年12月)レポートでは、日本が反撃力及びミサイル防衛をどのように可能にしていくかが直近の試練(test)とし、GDP比1%にとどまる日本の防衛費を問題視しています。その後も、2021年10月開催のCSIS・日本経済新聞社共催のシンポジウムにアーミテージ氏はオンライン参加し、「(緊迫した台湾海峡情勢を踏まえれば)日本が防衛予算を2倍またはそれ以上に増やすのは良い考えだ」と述べているのです。これらが今回の安保3文書で実現したわけです。
ここまで露骨にアメリカの言いなりになるとは、まさにアメリカに隷属してきた日本の為政者の面目躍如の感があります。ですが、日本政府がCSISに多額の寄付をし、人材を送り込んでいることなどから考えてみると、実は日本の為政者がやりたいことをアメリカの外圧という形をとって実現してきたのではないかとの疑念が生まれます。もちろんそれがアメリカの国益にかなっているからではありますが、日本自身がアメリカを利用して憲法を実質的に骨抜きにすることによって軍事国家への道を進めてきたということです。国のかたちを変えるのであるならば、本来改憲して進めるのが筋ですが、日本国内には改憲に対する根強い拒絶反応があるのでそれを回避するために、外圧を利用して実利をとったということのなでしょう。
ちょうど、幣原喜重郎元首相が、日本国憲法制定の際に、9条の発想を思いついたけれども、それを自分たちから政府案として提案すると国内の旧勢力や元軍人からつぶされるから、マッカーサーからの押し付けの形をとったのと同じ構造です。外圧に弱いという日本人のメンタリティに合った方法なのかもしれません。仮にこの説が正しいとしたら、日本はアメリカに隷属してアメリカ軍の2軍として使われてしまうのではなく、日本が自分の意思でアメリカ本土を守るための捨て石になっていることになります。
万が一にでも中国とアメリカが戦争になったら、アメリカは本土を戦場にするつもりは全くありませんから、南西諸島から日本列島を防波堤として戦場にします。すでにそうしたシミュレーションが行われており、Stars & Stripesという米軍の機関紙(Nov.14.2022)には「Okinawa bases won’t survive in a conflict with China.(沖縄の基地は中国との紛争で生き残れないだろう。)」とあります。ちょうど、日本本土を守るために沖縄を捨て石にしたのと同じことが行われようとしているのです。
台湾有事が日本有事などと言って危機感をあおり、防衛費を増やしてアメリカのために戦う自衛隊の装備を充実させることが本当に日本の国益、日本の人々の幸せになるのか、私たち自身が自分事として主体的に考えていかなければ、いいように使い捨てにされるだけです。世界からいくら日本人はいい人だと言われても、そこまでお人好しになる必要はないと思うのですがどうでしょうか。
しかもこうした外圧を利用した憲法の換骨奪胎は、いざというときに日本がアメリカの戦争の巻き添えを食って甚大な被害を受けるという悲惨な結果を招くだけでなく、この国から「法という考え方」自体を消滅させてしまうおそれがあります。蟻川恒正日本大学法学部教授が、雑誌『世界』(岩波書店)2023年2月号において、新安保法制法の制定過程における内閣法制局の対応を「法という考え方」を受け入れるか否かの問題であったことを鋭く指摘されています。
第2次安倍政権が新安保法制法の制定過程で「相応の理由の説明と、相応の手続の履践」を無視したことは、蟻川先生の指摘どおり「法という考え方そのものへの不敵な挑発」であり、「法という考え方そのものに敵対する政治の胎動」を意味します。仮にこの政治部門からの不敵な挑発に対して、法の守護者である裁判所が口を閉ざすことがあるとすれば、それはとりもなおさず、こうした「法という考え方」を裁判所自らが否定することにほかなりません。法を語り、法によって正義を実現するべき裁判所が、「法という考え方」そのものを否定することは、自殺行為に等しく、自らの存在理由を否定することになります。そのようなことが許されてよいはずはありません。
政府内法律家集団である内閣法制局が、2014年7月にこれまでの憲法解釈を変えて集団的自衛権行使を認めることにより「法という考え方」をその重要な部分で棄ててしまった以上、これを政府に守らせることは、政治部門の外にいる法律家にしかできないことになったのです。政治部門の外にいるはずの裁判所が新安保法制法に対して明確な違憲判断をすることなく、第2次安倍政権及び内閣法制局、そして国会が強行した集団的自衛権行使容認の判断を黙示に追認するようなことがあれば、それは裁判所自らが、「法という考え方を、その重要な部分で、棄てるという選択」をすることに他なりません。
このような「法という考え方」に対する敵対行動に対しては、法律家が一丸となって立ち向かわなければならないのではないでしょうか。そこでは、弁護士も検察官も裁判官、そして司法書士や行政書士であっても違いはないはずです。「法という考え方」で自らの存立基盤を確保している法律家という職業人には、その職業生命をかけて守らなければならない、絶対に譲ってはならない一線があるはずです。それを守り切れるのか、失ってしまうのかが今、問われているのです。
伊藤 真
司法試験・公務員試験対策の「伊藤塾」塾長・伊藤真の連載コーナーです。
メールマガジン「伊藤塾通信」で発信しています。
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