2023.12.01

第341回 文化芸術表現の自由

 2023年11月17日私が代理人を務めた助成金不交付決定処分取消訴訟についての最高裁判決がありました。安保法制違憲訴訟の東京国賠訴訟において、理由を示さず上訴を退けるいわゆる「三行判決」で上告棄却した第二小法廷ですから、心配していたのですが、画期的な逆転勝訴判決でした。

 

 正直な話、40年以上前の自分の司法試験合格発表のときよりも緊張しました。試験の結果は自分に降りかかるだけですし、合格不合格は自分の人生にとって等価値なはずだと勉強期間中も自分にも言い聞かせていましたから、それほど緊張しなかったのですが、この事件の最高裁判決は、将来の文化芸術表現の自由への影響が極めて大きいものですから、高裁判決をなぞるようなとんでもない判決や、単に差し戻すだけの判決だったらどうしようかと不安でした。

 

 ですが、いつも受験生の皆さんに言っているとおり、不安は頭の中の想像の産物であり現実ではないと自分に言い聞かせながら判決を迎えました。逆転完全勝訴判決が言い渡され裁判官が退廷した後に、思わず平先生や伊関先生をはじめとして弁護団の仲間と握手をして喜びを分かち合いました。

 

 この訴訟は原告である映画製作会社スターサンズの顧問弁護士である四宮隆史弁護士から相談され、河村光庸社長と面談したときに憲法訴訟になると直感して受任したものです。事件の経緯を改めて紹介しておきます。

 

 スターサンズは2018年4月頃、映画『宮本から君へ』の製作に着手し、同年11月に独立行政法人「日本芸術文化振興会」(芸文振)に助成金の申請をします。ほぼ完成した後の2019年3月に出演者の一人であるピエール瀧氏がコカインを使用したとして逮捕されました。その後、専門家によって本作品が高く評価され助成金交付の内定通知を受けたのですが、同年6月に有罪判決が言い渡されると、芸文振は出演シーンのカットを迫りました。その後、「国が薬物使用を容認するようなメッセージを発信することになりかねず、公益性の観点から不適当である」として、本件助成金を交付しない旨の本件処分をしたのです。

 

 そこで、スターサンズが原告となり、一度は専門家の判断で決定していた助成金の交付内定について、法律上の根拠がない「公益性の観点」という理由で不交付決定したのは違法だとして、2019年12月に芸文振(国)相手に不交付処分の取り消しを求めて提訴しました。

 

 訴状では、「かかる漠然とした理由で助成金の交付・不交付が決定されてしまうと、今後、(特に中小規模の映画会社や団体にとっては)助成金の交付の申請をすること、ひいては映画製作そのものに消極的にならざるを得ない。映画に限らず、美術、演劇、音楽、各種イベント等の全ての文化芸術活動にも同様の萎縮効果が働き、より大きな「萎縮の連鎖」・「萎縮のドミノ」が生まれる危険がある。この連鎖がさらに現実化すれば「表現の自由」(憲法21条1項)に対するさらに大きな実質的制約となる。」ことを指摘しました。

 

 その上で、「本件訴訟は、本件処分の違憲・違法にとどまるものではなく、将来にわたる文化芸術表現活動の「萎縮の連鎖」を断ち切り、表現の自由(憲法21条1項)、文化的な生活を営む権利(憲法25条1項)、文化芸術助成に関し平等に取り扱われる権利(憲法14条1項)といった憲法が保障する市民の権利を、人権保障の「最後の砦」である司法の力で守り切る、という司法と憲法の存在意義を問う訴訟である。」と主張しました。単なる行政法における行政裁量統制の問題として扱うのではなく、真正面から憲法問題として扱ってほしいという思いを込めて提訴したのです。

 

 2021年6月21日の東京地裁判決では、最高裁調査官、行政法の司法試験考査委員の経験もある清水千恵子裁判長が助成金を交付しないことを相当とする合理的理由があるといえないので本件処分は違法であると判断してくれました。ところが2022年3月3日の東京高裁判決では、一転して適法と判断します。

 

 その理由は、最高裁判決でも引用されているとおり、「薬物乱用が深刻な社会問題となっている状況の下において、理事長が、本件内定後に本件有罪判決が確定した事実を踏まえ、薬物乱用の防止という公益の観点から本件処分をしたことにつき、重要な事実の基礎を欠いているとか、その判断の内容が社会通念に照らし著しく妥当性を欠いているということはできない。かえって、本件映画の製作活動につき本件助成金を交付すれば、薬物に対する許容的な態度が一般的に広まり、ひいては、被上告人が行う助成制度への国民の理解を損なうおそれがある。よって、本件処分が理事長の裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用したものとは認められず、本件処分は適法というべきである。」というものでした。

 

 あたかも給付行政の分野では司法は出しゃばらない方がいいと言わんばかりに、国側の主張する「公益性」を前面に出した高裁判決でしたが、これに対して最高裁は、はっきりと「原審の上記判断は是認することができない。」とダメ出しします。その理由が極めて説得的で隙の無いものでした。司法試験、予備試験でもこうした明確でわかりやすい答案が理想だなと思わせるようなものでしたので、ぜひ、皆さんも読んでみてください。憲法の観点から給付行政の文脈においての行政裁量を厳格に司法統制する理屈が述べられています。以下に規範定立部分を引用します。

 

 「(助成金)の交付に係る判断は、理事長の裁量に委ねられており、裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用した場合に違法となるものというべきである。」「芸術的な観点からは助成の対象とすることが相当といえる活動についても、本件助成金を交付すると一般的な公益が害されると認められるときは、そのことを、交付に係る判断において、消極的な事情として考慮することができるものと解される。

 

 もっとも、本件助成金は、公演、展示等の表現行為に係る活動を対象とするものであるところ(振興会法14条1項1号)、芸術的な観点からは助成の対象とすることが相当といえる活動につき、本件助成金を交付すると当該活動に係る表現行為の内容に照らして一般的な公益が害されることを理由とする交付の拒否が広く行われるとすれば、公益がそもそも抽象的な概念であって助成対象活動の選別の基準が不明確にならざるを得ないことから、助成を必要とする者による交付の申請や助成を得ようとする者の表現行為の内容に萎縮的な影響が及ぶ可能性がある。

 

 このような事態は、本件助成金の趣旨ないし被上告人の目的を害するのみならず、芸術家等の自主性や創造性をも損なうものであり、憲法21条1項による表現の自由の保障の趣旨に照らしても、看過し難いものということができる。そうすると、本件助成金の交付に係る判断において、これを交付するとその対象とする活動に係る表現行為の内容に照らして一般的な公益が害されるということを消極的な考慮事情として重視し得るのは、当該公益が重要なものであり、かつ、当該公益が害される具体的な危険がある場合に限られるものと解するのが相当である。」

 

 こうして憲法の表現の自由の保障の趣旨から厳格な判断枠組みを立てた後に、具体的な当てはめが続くのですが、そこでも、国側(被上告人)の主張をあげた上で、以下のように明確に否定します。

 

 「本件出演者が本件助成金の交付により直接利益を受ける立場にあるとはいえないこと等からすれば、本件映画の製作活動につき本件助成金を交付したからといって、被上告人が上記のようなメッセージを発したと受け取られるなどということ自体、本件出演者の知名度や演ずる役の重要性にかかわらず、にわかに想定し難い上、これにより直ちに薬物に対する許容的な態度が一般に広まり薬物を使用する者等が増加するという根拠も見当たらないから、薬物乱用の防止という公益が害される具体的な危険があるとはいい難い。

 

 そして、被上告人のいう本件助成金の在り方に対する国民の理解については、公金が国民の理解の下に使用されることをもって薬物乱用の防止と別個の公益とみる余地があるとしても、このような抽象的な公益が薬物乱用の防止と同様に重要なものであるということはできない。

 

 そうすると、本件処分に当たり、本件映画の製作活動につき本件助成金を交付すると、本件出演者が一定の役を演じているという本件映画の内容に照らし上記のような公益が害されるということを、消極的な考慮事情として重視することはできないというべきである。

 

 そして、前記事実関係等によれば、理事長は基金運営委員会の答申を受けて本件内定をしており、本件映画の製作活動を助成対象活動とすべきとの判断が芸術的な観点から不合理であるとはいえないところ、ほかに本件助成金を交付することが不合理であるというべき事情もうかがわれないから、本件処分は、重視すべきでない事情を重視した結果、社会通念に照らし著しく妥当性を欠いたものであるということができる。以上によれば、本件処分は、理事長の裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用したものとして違法というべきである。」

 

 そして、最後に以下のように結論づけます。「以上と異なる原審の前記判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、以上に説示したところによれば、本件処分の取消請求を認容した第1審判決は正当であるから、被上告人の控訴を棄却すべきである。よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。」

 

 「論旨」というのは上告人の主張をいいますが、いつも最高裁から、「論旨は採用することができない」と言われて負け続けてきたので、「論旨は理由があり」という部分は新鮮でした。このような判決を裁判官の中でも最高裁判所上席調査官の経験もあり超がつくエリートと言われる尾島明裁判長が書いてくれたことは、最高裁の将来に一縷の光が射したようでした。

 

 私はこの事件が始まった東京地裁の冒頭の意見陳述で以下のような発言をしています。「何よりも、恣意的な助成を通じて、政府が言論市場を支配し、人々の価値観や世論を都合のいいように歪め、コントロールしかねないという危険に対しては、司法は常に目を光らせておかなければならない。国家による助成を通じて、表現の恣意的な選別がなされてはならないのである。」

 

 「ドイツ連邦憲法5条3項においては、「芸術および学問は……、自由である」とされ、「芸術の自由」という人権が学問の自由と並んで明記されて保障されている。芸術は、人間性の内面の探求であり、人間性の発露であるという点において学問と同様の重要性を有していることの証である。ちなみにイタリア共和国憲法33条1項においても学問の自由と芸術の自由は同じ条文に規定されている。第二次世界大戦において学問や芸術がファシズムに利用されてしまったことへの大きな反省を見て取ることができる。」

 

 「日本も批准している国際人権規約においては、そのB規約(自由権規約)19条2項において、芸術の自由を保障し、A規約(社会権規約)15条1項で文化的生活に参加する権利を保障し、2項では文化の保存、発展、普及に必要な国の措置を規定する。文化的な生活は単に文化芸術活動を国が不当に規制しないだけでは実質的に実現できないからこそ、社会権規定においても規定されているのである。日本国憲法の下においても、文化芸術に関しては憲法25条が21条の表現の自由を実質的に下支えし、一体となって13条の幸福追求権ひいては個人の尊重を実現しているといえる。」

 

 「人は、音楽を聴いたり、映画や舞台を観たり、アート作品に触れることで、自分の中の何かが動く。思いもかけない内容に触発され、新たな驚きと発見で心がざわついたり、穏やかになったりする。文化芸術に触れたときの受け止め方は皆ぞれぞれであり、それは極めて個人的な精神の営みである。そうした観点からは芸術とは、単に多数人にとって受け入れやすい美しいものだけを意味するのではない。芸術が人の様々な感情を生み出して、価値観を揺さぶるものである以上は、特に異端、異論、少数派と評価されるようなものの存在をも認めていかねばならない。これこそが憲法が文化芸術を人権として保障することの意味である。たとえ多くの人が眉を顰めるような作品であっても、鑑賞する者がそこから何かを受け止め、皮肉や問題提起も含めて刺激を受け触発されるものがあれば、文化芸術として十分に保護されるべきなのである。多様な解釈が可能な作品は芸術として保護されるべきである。」

 

 「助成金不交付という手段によって実質的に表現内容を統制しようとする企てには徹底して抗わなければならない。しかも何ら法的根拠もなく、規制する側の匙加減でどうにでもなる「公益性」という曖昧な概念による規制は極めて危険である。今後も、暴力的、犯罪的、性的、不道徳、非常識と一般的に思われるものは「公益性」の名の下に規制されかねない。表現の不自由の連鎖は、文化芸術のみならず、もちろん政治的表現にも波及する。忖度によるものであっても強者からの干渉によるものであっても、こうした理不尽に抗い続けることでしか、多様性を認め合って共存する寛容な社会を築くことはできないと考える。」

 

 「特に人権保障の最後の砦といわれる裁判所は、政治部門の影響を受けない独立した立場にあるのであるから、こうした危険性には一層敏感であるべきで、憲法価値を実現する方向で慎重に審理し判断するべき職責を有している。本件は、決して、広範な行政裁量の問題として片づけてしまってはならない事件なのである。」

 

 「人々がお互いを尊重し、多様性を認め合いながら共存できる寛容な社会をつくるためにも裁判所がその職責を果たすことが期待されている。裁判所には、憲法を実社会で生かしていけるような、憲法価値を実現する適切な判断を求めるものである。」

 

 今回、裁判所は憲法と司法の存在意義を示してくれました。そして、憲法価値を司法を通じて実社会で生かすことができることも示してくれました。理不尽を感じたら、何度負けようがそれに抗い続ける姿勢が重要であることも学べた訴訟でした。この訴訟では憲法研究者の先生方の助けがありました。特に武蔵野美術大学の志田陽子教授、日本大学の蟻川恒正教授の意見書は不可欠で大変ありがたく感謝しています。いくつになっても学びがあるものだとつくづく思います。そして、あらためて「やればできる。必ずできる。そして最後まで絶対に諦めない」と自分に言い聞かせています。