2025.10.01

第363回 国際標準と独自性

メディアでは連日、自民党総裁選挙の様子が報じられています。この結果が日本の総理大臣という行政のトップを決めることになるのですから、メディアが強い関心を寄せるのは当然です。しかし、先の参議院選挙における自民党の得票率は21%にすぎません。有権者の21%が支持した政党の内部の議論だけで、日本の総理大臣が事実上決められてしまうのです。

 

国会において総理大臣を指名するとき、すべての国会議員は同じ1票を持って投票します。1年生議員であろうと、10回当選したベテラン議員であろうと、1票の価値は同じです。それは、同じ選挙制度で選ばれた議員であれば背後の有権者数も同等と考えられるからであり、そのことが議員の正統性を支えています。もちろん、当選した議員に投票しなかった有権者や投票に行かなかった人もいますが、同じ選挙区で選ばれた以上、その議員はすべての有権者の代表として正統性を与えられるのです。

 

ところが実際には、1人の議員の背後にある有権者数は大きく異なります。昨年の衆議院議員選挙では、46万人から支持された議員もいれば、22万人から支持された議員もいました。これは主権者から見れば、自分の1票の価値が他の人の半分にしかならないことを意味します。

 

先月26日、最高裁がこの選挙制度について判決を出しました。アダムズ方式で初めて行われた選挙でしたが、基準となる国勢調査の時点では格差が1.999倍、選挙当日には2.059倍に拡大していました。それでも最高裁は合憲と判断しました。しかし、有権者にとって重要なのは「選挙当日の自分の1票の価値」です。基準時に2倍未満だったから問題ないという判断は、主権者の権利を軽視するものであり許されません。

 

一票の格差問題は単なる技術的な論点ではありません。統治論の観点からいえば、人口比例選挙でなければ「国民の多数が国会議員の多数を選ぶ」という正統性が担保されません。人権論の観点からいえば、居住地によって投票価値が異なることは憲法14条の平等権に反し、また個人を等しく尊重する憲法13条の理念にも背きます。

 

今回の最高裁判決も「2倍を超えるか否か」だけに焦点を当てました。しかし、2倍をわずかに超えても合憲かという議論は本末転倒です。自分の1票が0.5票分の価値しかない合理的根拠は何一つ示されていません。投票価値は1対1が原則であることを忘れてはならないのです。

 

一票の格差を是正すると「地方の声が反映されなくなる」という議論もありますが、その主張自体に説得力はないのみならず、問題の本質はそこではありません。日本が先進国標準の民主主義を採用するか否かという根本的な問いなのです。国際的に見れば、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、韓国はいずれも国のトップを決める選挙において人口比例を徹底しています(英独は国政選挙)。日本だけが非人口比例選挙を続けており、そのことが政治の歪みを生み、国際標準からの大きな乖離をもたらしています。

 

たとえば経済面では、石破首相が昨年の所信表明演説で認めたように、1994年から2023年の29年間で日本のGDPシェアは17.6%から4%へと激減しました。国民一人当たりの平均賃金も、他国が右肩上がりで上昇する中、日本だけが停滞しています。政治の仕組みが主権者の声を正しく反映していないことが、政権交代の停滞や経済低迷の背景にあると考えられます。

 

経済の停滞には複合的な様々な要因があるでしょう。しかし、国民の代表者が正当に選ばれていなければ、先進国と同じ土俵で競争することはできません。それにもかかわらず、この投票格差の深刻さを大手メディアはほとんど報じません。

 

日本のメディアの独自性にも光と影があります。NHKや全国紙・地方紙による情報網は災害時に大きな威力を発揮しますが、記者クラブ制度の閉鎖性や政治権力との距離の近さは批判され、報道自由度は依然として低いままです。刑事事件報道でも、警察発表をそのまま流す姿勢が無罪推定を形骸化させ、冤罪の遠因となっているとの指摘もあります。

 

刑事司法に目を向ければ、有罪率の高さは特徴的ですが、自白依存の傾向は国際標準から大きく外れています。人質司法といわれる身体拘束期間の長さや弁護人立ち合いの不十分さも深刻です。裁判員制度の導入で市民感覚を裁判に反映させようとしましたが、死刑制度の存置は先進国標準から乖離しています。取り調べの全面録音・録画や弁護人立ち合いなど、権利保障の国際標準化は急務です。

 

一方で、日本の独自性が強みとなる分野もあります。たとえば非核三原則は国際社会での道義的リーダーシップの源泉であり、憲法9条の平和主義も世界に誇れる独自性です。しかし近年は軍拡と日米軍事一体化が進み、安全保障政策が憲法から切り離されてしまっています。

 

また、移民や外国人労働者の受け入れに慎重であった日本は、かつては比較的寛容な社会でした。しかし最近は排外主義的な風潮が強まりつつあります。格差の拡大や社会不安の中で、西欧諸国と同じように極右勢力が台頭するリスクも否定できません。こうした状況だからこそ、日本の公共性や和の精神、地域社会の連帯感を生かし、多文化共生を進める独自性を打ち出すことが求められます。それこそ、異質な他者との共存をめざす憲法の精神に合致するものです。

 

石破首相が9月23日に国連一般討論演説で語った「差別や排外主義を許さず、健全で強靭な民主主義を守る」という姿勢は、日本が世界に示すべき独自性を体現しています。保守とリベラルの共通点を「寛容性」に見いだす視点も、憲法の精神に通じるものです。

 

「私は、民主主義が広がれば世界に平和が訪れるといった楽観論には立ちません。全体主義や無責任なポピュリズムを排し、偏狭なナショナリズムには陥らない。差別や排外主義を許さない。このように健全で強靭な民主主義こそが、自由で開かれた国際秩序の維持、強化、国際の平和と安全に大きく資するものと私は信じるものであります。その土台となるのは、過去を直視する勇気と誠実さ、人権意識の涵養、使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間、そして、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズムです。」

 

石破首相は2024年に出版された自身の著書『保守政治家石破茂』(講談社)の中でこう述べています。

 

「相手の主張に対して寛容性をもって聞く、受け入れる度量を持つ、という態度こそ保守の本質です。…この意味においては、『リベラル』と『保守』はきわめて近い概念だと思っています。『リベラル』は『保守』とは逆に、左翼勢力に標榜されることが多い言葉ですが、リベラルの本質もまた寛容性にあるはずです。…相手の言うことを聞く柔軟性と寛容性、受け入れる度量、あるいはお互いに納得いくまで説明する努力、それこそが保守とリベラルに共通する本質ではないでしょうか。つまり、逆説でも何でもなく、保守とはリベラルのことでもあるのです。」

 

さらに、人間と国家の無謬性を次のように否定しています。

 

「人間も人間社会も完璧ではない。必ず間違いを犯す可能性がある。だからこそ、自分たちだけが正しいと思わず、常に異論、反論に耳を傾けるべきです」「国家もまた、時に大きな過ちを犯します。…先の戦争における大日本帝国政府がそうでした。」

 

この視点こそ憲法の存在理由そのものといえます。

 

国連で保守政治家を自認する石破首相があえてリベラルについて発言したことは、いま分断と不寛容が蔓延している国際社会に向けたメッセージとして極めて重要な意味を持つと考えます。もちろん、この発言で世界が急に変わるわけではありませんが、国のトップがこうした姿勢を示すことによって、日本の本来の独自性を世界に表明することができるのです。

 

個人のレベルでは、「人は皆ちがっていい」。多様性ゆえに人類は進歩してきたのですから、国家のレベルでもすべての点において世界標準である必要はありません。日本は世界標準に従うべき領域と、独自性を発揮すべき領域を見極めなければなりません。国際標準を満たす制度改革を進めつつ、平和主義や公共性、多文化共生といった独自の強みを発揮することで、日本は「国際社会において名誉ある地位」を占めることができると考えます。